第9回集会


7月23日に「学びをつくる会」の第9回集会がおこなわれました。その報告です。 「学力問題」が教育の中で大きな矛盾をおこし、学校そのものを問うという状況がひきおこされています。また団塊の世代の教師たちがそろそろ退職の時期をむかえ、若手教師が大量に採用されるという「教師の世代交代」の時期をもむかえています。若い教師たちが子どもの現状、学びとは何かに悩みながら実践をすすめてきています。
 そんな中、第9回集会は、「競争の教育を問う」をテーマに講演と分科会をもちました。熱心な参加者が100名を越え、真剣に考えました。特に若い参加者が多かったことが特徴的なことだと思います。
 午前は全体講演です。開会あいさつは菊地良輔さんがたちました。
 「学びをつくる会ははじめてから3年がたちました。当初私たちの会は3年を区切りとすることとしてはじめました。しかし、もう少し続けようと思います。主体的条件と客観的状況から考えてのことです。主体的なこととしては毎月の学習例会をもとに若い人たちのサークル『学びの輪』が結成されました。6月の25・26日には釧路の学びをつくる会との交流もおこないました。釧路の意欲ある人たちとの意義ある会となりました。客観的状況としては、日本社会での必要性から考えてのことです。『学び』のあり方が問われています。東京の学力テストは害悪を流し続けています。施策としては本来やるべきことと正反対のことがおこなわれています。OECDの調査ではどういうものが求められていたのでしょうか。機械的な受験学力を調べようとしていたのではありません。数学的リテラシー、現代を市民として生きる力を調べていたのです。市民として生きる力を学校で育てることが求められています。『学力問題』と『若者問題』をつなぐということで若者の生きづらさから今日は考えていきたいと思います」
 
講演:「学力問題」と「若者問題」をつなぐ
~競争強化と“ニート”対策は何をもたらすか~

平塚真樹さん(法政大学教授)
今日はふたつのことを考えたいと思います。まず今の社会の現実を考えたいと思います。どこにもっていこうとしているか、です。もうひとつは自分たちの問題として「学力問題」「若者問題」にかかわっていく視点についてです。

<「いま」という時代のキモチワルサ>
 「学力問題」といわれている問題についてです。学習 指導要領がかわる前後以降のてんまつがそれを示しています。学力テスト・学力施策です。「若者問題」ということでいえばキャリア教育、“ニート”対策などというのがこれにあたります。「ニート」ということばがマスコミに登場したのは04年9月11日です。労働経済白書が発表されましたが、この中に「ニート」という言葉はありませんでした。記者会見でワード化され、一斉に報道されたのです。それから9月11日から15日までの間に活発な報道があり、流布されていきました。新聞記事・テレビのコメンテイターがくりかえしこの言葉を使い、実態を経ずに言説が実態をとびこえてしまったのです。政策や施策が目に見えない力によってうごかされているようです。
 今、ポビュリズムということが言われています。本来はネガティブな言葉ではありません。民衆が政治を動かしていく、という意味で。しかし、今は大衆迎合主義などといわれています。善悪二元論できってしまうのです。学力が高いのが善、低いのが悪というわけです。学力とは何かなどと問うことはないのです。政治と民衆ということで考えても見識が弱まっているように思います。政治の方で人気取り政治がすすんでいます。強権的リーダー、小泉・石原に代表されますが、不安や葛藤をかきけしてしまうのです。
ファシズム期の日本・ドイツ・イタリアにはポピュリズムがありました。背景となるものが共通していたのです。
現在も、政治と国民双方で現実に対する強い不安感があります。次の時代に移る時、不安や葛藤が高まりますが、表にでて共有化できづらい条件があります。学生たちをみていると不安のオーラをだしているのに、それは自分だけだと思っているのです。学びあうと「同じような不安をかかえている」という安心感がでてきます。社会的・共同的問題にならないのです。そして、支配の側では、次の時代をどうしていこうかという時にこれを利用しようとしているのです。PISAの結果も単純化してみます。学力が低下したのは「ゆとり教育」のせい、というのです。

<脅威・不安としての“勉強しない子どもたち”“成人化しない若者たち”
 対策としての「学力(向上)政策」「若者(の自立化)政策>
1990年代なかば行財政政策として新自由主義がでてきました。戦後つくりあげてきたワク組みを大きくくみかえていこうとしています。日本型企業社会を雇用・労働の変化、憲法「改正」などをすすめていこうということです。戦後日本社会の構造は企業が国民の福祉をになっていたのですが、これを組み替えていこうというのです。
 社会構造政策としてのポビュリズムです。21世紀の社会は国民が平均的な力をあげて全体をあげていくのではなく、一部の強い「子」が世の中を支配していく、という構造をねらっています。
支配の側が考えていることです。今の日本は「途上国よりは豊かである」ということと「いつまでこれが続くかわからない」という不確実性の中で生きています。若者・子どもはこの中で生きています。そして、「弱い“個”」の方に地崩れがおきているとみています。「カッタリー」ということばに象徴されます。こちらの方に全体がすいよせられてしまうのではないかと恐れているのです。そこで、全体の中である程度の人たちに「がんばって」ほしいと考えます。「強い“個”」のリーダー層をもう少し多くしようというのです。中間層的な子どもをそれ以下の子どもときりわけようというのです。「強い“個”」にひきつけられる層をふやそうというのです。低い子には「格差も個性」と納得させます。「学力」とか「ニート」というのはシンボルとしての意味しかありません。断ち切りたい層を分断するのに有効なのです。雑誌教育の4月号に中西新太郎さんが「ニート対策は中間層のリハビリ」と書いていました。中間層がこれでがんばるというのです。学生の間でもフリーターというのはファジーに聞こえます。しかし、ニートにはみんななりたくないのです。
学力問題でも、中間層には「学力づくり」「学習」が有効だとは思っていません。ドリル方学習で上がってきたもので育てればいいということです。

<「学力問題」「若者問題」言説・施策の陥穿>
「学力問題」はふたつの方向があります。「やらせる教育」で学力をあげようというものと「やりたい人はやりなさい教育」でゆとり教育をすすめようというものです。
 「若者問題」も同様です。強制・訓練の強化で若者を訓練していくものと「進路意識明確化が大切」と個性化・選択化をすすめようというものです。ナンバワンではなく、オンリーワンというわけです。
 しかし、どちらにもない「視点」が大切です。それは「なぜ?」という問いを持つということです。問題があるから対処する、というのではなく、問題をどう考えるかというところから出発すべきです。理由や背景を考えることです。子ども・若者に対する人間としての敬意があるかないかといってもいいでしょう。教師は生徒に対する人間的共感をもっているでしょうか。それは生徒の側からも言えることです。共感が成り立たない相手に何を働きかけてもダメなのです。共感は教師にとって不可欠のスタンスです。
 「勉強しない」「成人化しない」のは何か理由や背景があるはず、ということを考えるのは支配層が感じているものとは別です。

<なぜ、かつてのように勉強しない・成人化しづらいのか? はたして、みな一様にそうなのか?>
96年のOECDの調査報告があります。15歳から24歳までの青年に「科学的リテラシー」「科学的関心」についてきいているものです。先進国ではどこもリテラシーや関心が高くなっています。日本は「例外的に低い」という評価をうけています。日本の青年はこの時も数学的な学習に意味を感じていなかったり、自分はダメだと思っているのです。またもうひとつの資料をみてください。1979年と97年の調査ですが、高校生に「授業の勉強でさらに勉強する意欲がわく」「落第しない程度の成績でよい」「親の期待に答えて勉強しなければと思う」などの項目をきき、母親の学歴別に集計したものです。どの項目も母親の学歴が高いほど「意欲があり」「おちついて学習していること」を示しています。
 PISAの調査でも読解力やリテラシーの項目で下位のものの成績が下がっているのです。科学的リテラシーでは両極化が顕著です。
 感覚的に親たちは「私たちのころより勉強しない」とか「いつまでも家にいる」などといって「勉強しない子ども」「自立しない若者」のことを表現しています。近代以前では人間形成のシステムとして社会がコミニュティが子どもを育てていました。これが崩れていったのが高度経済成長の時期です。しかし、この時はまだ学校は良好に機能していました。学校という教育システムが成人化にむけた有用性があったのです。60年代の民研の調査で千葉県の農民の調査したものがあります。この時代、上層・中層・下層のどの層の農民も「せめて高校ぐらい出させなきゃ」と言っていました。高校をでればあとはなんとかなったのです。その教育の内容とは別に卒業すれば生きていくてづるになるということでした。学校が矛盾を隠蔽していたのです。今はそういう状況にはありません。コミニュティが人間を育てる力が弱まっています。学校の社会的効用も低下しています。

<人間形成における不信(信頼の持ちづらさ)の学習>
・社会システムの硬化と複雑化
世の中は自分が働きかけてもどうにかなるとは思えない、という感覚です。システムや制度というものからの疎外感があります。「言ってもかわらない」という感じです。
・抽象的システムの信頼低下
 環境・食・医療・金融などという既存のシステムがガタがきていて、信頼できなくなっています。抽象的システムへの不信があります。すべてのことが信頼できないというのです。学校教育への信頼の低下もここからきています。何にむけて何をがんばればいいのかわからない、このさきも不確実なのです。
・自己責任化・個人化の進行
 国民のリスクを国家がシェアしないのです。近代以前はコミニュティが個人をかばいあってきました。福祉国家というのは国家が国民のいざという時の安心になっていました。昔は何事かあった時はだれかが助けてくれる、という安心感があったのです。今、国家は「リスクは個人でしょえ」と言っているのです。
 日常生活では、休みがちな子がいる時「来ないのはその子の自由」と言って、来ない子へ働きかけるのは甘えを助長するということで、他者へのかかわりをしない、人生のすべての場面での選択はその人の選択だとばかり他者がどうということではない、としてかかわりあい、助け合いを断ち切ってしまうのです。個人化がすすんでいる社会では、かかわり、相互依存性をみえにくくしています。
 戦後責任の問題でもそうです。われわれが歴史を背負い、生きていることを考えなければなりません。昨年のイラク人質事件の時も自己責任論がふりまかれました。NGOや報道写真家がイラクに行ってわれわれに提供している情報をもとに私たちの生活とも結びついているという想像力や可能性にまで考えがいかないのです。自分は「自分を守るのに精一杯」というのです。
・基本的信頼の不確実化
 人が成人になることの生きづらさがあります。今の世の中のマイナスをプラスにきりかえていかなければなりません。自分のありのままを認められない、ネガティブな部分を受け入れられなければ自立はできません。
人間は何かできるから愛されるのではなく、存在そのものがいとおしく感ずる、ということがしずらくなっています。勉強しない子ども、成人化しない若者は「生きていること」が与えられたものとしか感じられず、これを自分のものにきりかえる必要があります。この世に自分を投じづらくなっています。

<どのような再建をなし得るのか?>
ここで時間となってしまいました。どうしたらいいかということは「これまで述べてきたことを全部ひっくりかえせばいい」のです。講演はここまでです。
 
*しかし、ここからが肝心です。平塚先生のレジュメの「その後」を羅列しておきます。
不信の学習システムを、信頼の学習保障システムへ転じること
 →「生」の引き受け=社会参加の主体化
・人と人、人と環境との相互依存、相互関連がみえてくる学習
・関わりが豊かに生まれ、マジをされる学習・生活
・関わり、働きかければ動き変容する環境・制度の準備
・リスクを互いに分かち合える場と社会の形成
・イノセントの解体の保障
(文責・大谷 猛夫)
分科会報告
午後からは分科会にうつりました。各分科会の報告です。
第一分科会・「授業」
第一分科会では国語と算数の「授業」報告がありました。
 国語では、小山公一さん(まなび探偵団アニマシオンクラブ)が「読書のアニマシオン~『ぼくが宇宙をとんだわけ』」の実践報告を「詩のアニマシオン~『白くま』」のワークショップを行いました。授業がワンパターン化したり、教師が作者の気持ちをおしつけてしまいがちな国語で「学習は楽しくなければならない」と自分で課題をみつけ、子どもたちと創り上げていく授業の実践をみせていただきました。『ぼくが宇宙をとんだわけ』を読んで子どもが毛利衛さんの体験を実況中継する様子を最後は実際にテープで聞きました。子どもたちが生き生きと楽しんでとりくむ様子が伝わってきました。また、日頃から文や言葉の意識をもたせるために「天気はどうだった?」など一つの文をていねいに書いていくことや、いきなり教材にはいるのではなく、事前に資料や写真にを提示して子どもたちのイメージをひろげ、深めておくことを大切にしていることが、授業の中で生かされていました。詩のワークショップでは「白くま」の詩から白くま、人間の立場になって気持ちを考えていきました。最後は白くまと人間の気持ちをかけ合いのように行い、参加者も楽しむことができました。
 算数では、石井孝子さん(町田サークル)が体積の授業の実践、増島高敬さんが不思議な150ます計算を行いました。石井さんは大変な6年生を教えていましたが、子どもたちが興味をもって取り組める工夫を授業の中で展開しました。エジプトの呪文を唱えたり、発想力の豊かさに参加者も楽しんで聞いていました。立体の学習なら実際に立体をさわらせイメージをふくらませることが大切で、子どもと一体になって心をつなげる授業の実践を行っていました。
 最後にコメンテイターの市川良さんより、子どもの心にひびき、一人ひとりの値打ちのある授業実践でした。たった一時間かもしれないけれど、終わった後に「今日の授業良かったね」と言ってもらえるような授業を私たちは考えていくことが大切です。       (文責・影島 紀子)
 
 
第二分科会「教師」(教師の挫折と再生)
忙しいという実感、疲れているという実感があるけれど、それがなぜなのか実はよくわからない。困難の原因はどこにあるのか、振り返ることがなかなかできない。そうした状況にあることは二人の報告から共通して語られたことです。この機会に見つめ直して「いま」を報告者と参加者で語り合いました。
 教職26年目の桐生さんは、職場がうつりかわり、立場も変わっていきながら、地域で職場で、様々な条件のなかで自分の実践を探ってきていることを報告されました。不安を抱え落胆を経験しながら、子どもとの出会い、先輩教師や仲間との出会い、保護者との関係、研究会活動や組合活動の中で学んできたことが振り返られ、それが現在につながるきっかけとなっていると語られました。雑務に追われている今は、若い世代とどのように関わるかを考えておられます。
 4年目の吉澤さんは、今年度のスタートがしっくりきていないこと、今の職場の環境が恵まれていると感じていること、管理職、学校の自由さ、仲間が大切だということを話されました。日々、子どもをどう見るのか、どう関わるのかということにも心を砕いてきている様子が伝わりました。人とつながりたいという強い思いを子どもにみつけ、そこにどのように応えていったらよいのか、自ら問いながらも語り合いながら追求されています。
 参加者からは、仲間と語り合えることがとても大切だという思いが口々に出されました。失敗をさらけ出すことの難しさや、自分だけを責めてしまうことのある中で、誰かに話せることやきいてもらえることが貴重です。また、あるベテランの先生からは「挫折」の最中にあることが語られました。自分の置かれている状況が変わる中でこれまでやってきたことの意味が否定され、「職場で果たしていく役割があるはずなのに」と苦しんでいます。初任の先生からは、日常を研修に埋められて、子どもに向き合う時間がないまま学級担任をしなければならない苦しみ、準備なしに授業をしなければならない苦しみが語られました。
 コメンテイターの笠井さんは、「挫折と再生」という分科会のテーマだが、果たして「再生」を語れるのかと問いかけました。「再生」のためにどうすればいいのか。学びあえる仲間、ききあえる仲間が大切だということ、失敗をどう捉えなおし、失敗しないようにどうするのかが職場の問題であり、だからこそ語り合っていくようにすることが大事だと確認されました。また、教師が多忙であることを発信することが必要だと話されました。                    (文責・大日方真史)
 
 
第三分科会「社会と子ども」
参加者は26名、はじめに参加者がさらっと自己紹介してから「自分探しをする若者たち~GAP・YEAR=ゆとり時間を私に与え世界を見回す」と題して、岩辺みどりさんが、イギリスからヨーロッパに広がるGAP・YEARをとった若者たちの姿をレポートしました。岩辺さんのこれらのレポートについては「子どものしあわせ」(草土文化)に連載されています。イギリスでは義務教育は5歳からですが、実際にはプレスクールといわれる4歳から学校生活が始まり、16歳までの義務教育があります。18歳でA・Levelといわれる大学入学試験を受けます。入学する大学も決まった若者たちが自分が勉強してきたものと社会がどうつながっているのだろうかというようなことを考える時間としてGAP・YEARをとることがここ数年で一般化しはじめたそうです。
 休憩をとった後「現代社会・生活にふれる学びをどうつくるのか」本山明さんからの報告を聞きました。授業のビデオから報告が始まり、資料の説明をうけました。本山さんが何を大切にして授業をしているかということが8つほど挙げられていました。その中のひとつが時事問題を教室に入れることで(子どもたちが自分で選んだ新聞の切り抜きに対し、5行くらいのコメントを書いて発表する)様々なことを発表するので、何を言っても許される雰囲気が生まれる、子どもたちが書いたものはプリントして、子どもたちに渡す、そこに交流が生まれ、交流していくうちにお互いが見えるようになっていく、というのがありました。
 討議では若い人たちからも活発に意見が出て、あっという間に終了時間になってしまいました。「自分探し」という言葉にも少し手垢がついてきたようですが、自分が社会の中に関わりを持ちながら、どう社会とつながっていくのか、そこを探すのがGAP・YEARであり、社会との関わりなしに自分探しはできないという再認識もされました。 (文責・荻野佳津子)
 
 
第四分科会「子ども理解」
小学生のころから将来の夢は「先生」とずっと思いつづけてきた塚本先生と五十嵐先生。その夢が叶った今、昨年一年目の教員生活から、第4分科会のテーマである「子ども理解とクラスつづくり」に沿って報告しました。
 「一人ひとりを大切にする先生になりたい」「心の温かい先生になりたい」と思い描いて子どもと出会った始業式。それは日々奮闘した1年目のはじまりでもありました。全校児童が1000名もいる大規模校、先生の話を聞かずおしゃべりが止まらないクラスの子どもたち、学校に・子どもに・そして担任の先生に関心をよせる保護者からの要望やクレーム、この状況を担任としてどうすればよいのかわからずにゆとりをなくす自己の状態に苦しんだ1学期。時折り言葉を詰まらせながら語るお二人の話に、分科会の参加者も息をのんで聴き入っていました。
 報告の中で「もうイヤだ!」「あのクラスに行きたくない!」と思う日もあったと振り返る場面もありました。けれども「友だちを助けようとする子どもの言葉は大切だな」「注意ばかりして子どもとかかわるのではなく、身近な話をもっとすれば子どもとの距離が近くなるな」など、一見困難と思えるクラスの現状の中で、子どもの一瞬の表情を見逃さずに気づいていったのです。少しずつクラスの子どもたちと心を通わせていく二人の報告に「聞いていて気持ちが潤いました。」という感想が参加者からよせられました。また、大学生の参加者も多い中、「9月末から教育実習に行くが、今日の話には涙ぐんでしまった。」とこれから先生を目指す人にも何かしら考えるきっかけを投げかけたのではないかと感じています。
「悲しみや辛さ、怒りなど自己のネガティブな気持ちをどのようにか出し合い、つなげて、お互いを癒し合っていくことがこれからの学校教育に必要なことではないか。」とコメンテイターの片岡先生からお言葉がありました。まさに、その取り組みの一端となった第4分科会では、参加者全員に「前向きな心の変化」が認められたことでしょう。 (文責・山口貴子)