第12回集会

1月27日に「学びをつくる会」の第12回集会がおこなわれました。その報告です。
 今回の集会は、「市民を育てる教育と学び~現状を読み解き、新たな時代つくる」をテーマに講演と分科会をもちました。参加者は80名あまりでした。今回も若手教師、学生など若い参加者が多かったことが特徴的なことだと思います。広がりを感じています。

 午前は全体講演です。開会あいさつは菊地良輔さんがたちました。
「前回の学びをつくる会集会から、日本の教育をめぐる情勢に大きな変化がありました。いうまでもなく、昨年の後半に、教育基本法を守るたたかいがピークをむかえ、そして、12月には、大改悪された教育基本法が国会を通過したことです。これはたいへん残念なことですが、がっかりしているひまはありません。今年は、国会で学校教育法・地教行法・教員免許法の改定案が提出されます。学習指導要領の改定もいそがれます。私たちがじっとしていられる状況にはありません。
 昨年の運動でつくられた力をさらに幅広い、分厚いものに発展させる必要があります。「学びをつくる会」の教育研究においても、これまで教育基本法に示されていた教育の原理・原則をさらに深くとらえなおし、それを、より広く深く、日本の教師たち、さらには国民のものにしていくことを、あらためて課題として、責任として自覚しなければならないと思っています。
 「学びをつくる会」は広くよびかける集会をほぼ年に2回ずつ開いてきました。また、その間に毎月の学習会を開いています。昨年後半は10月には綿貫公平さんから「中学生の学びと進路」を、11月には、佐藤博さんと私(菊地良輔)が「私の中の教育基本法」という題で「市民を育てる学びのあり方」を、12月には本山明さんから「回転寿司の授業」を、という具合に学習してきました。教育の目的は「平和的な国家・社会の形成者」として「人格の完成をめざす」ものであるとされていました。いまご紹介した先生方が子どもとともに創り出したものはそういう「学び」といえるのではないかと思います。12回をむかえた「学びをつくる会」の集会はこういう学習会を基盤にしてなりたっています。ぜひ、毎月の学習会への参加をおすすめし、この会の研究をさらに豊かなものにしたいと思います。
 今日も、若い方のお顔が多く見えます。この「学びをつくる会」は参加者のなかの若い教師・研究者・学生の比率が最も高い研究会ではないかと思います。今日の分科会でもぜひ主役になってください。
 続いて佐藤隆さん(都留文科大学)の講演です。

 

講演:「21世紀にふさわしい教育改革の方向性と教師の仕事」
佐藤隆(都留文科大学)

 

今日は「暗い話」をたっぷりしたいと思います。現場の教師が市民を育てるということはどういうことかをお話したいと思います。
 教育基本法が変えられ、教育再生会議では何のデータもなしに「こうしたらいい」ということをいうわけです。このままではいったいどうなっていくのでしょうか。
 この10年間の教育の危機の深まりは、強い者が弱い者を、大きな声を出す者が弱い者、力のない者をいじめる、という構図でした。自分たちがつくりだしたのに、弱い者に責任をおしつけるものです。行政が教師と子どもに責任をおしつける。権力者が弱い者の責任にする、というものです。バッシング・勝ち組負け組・自己責任、という言葉が広がりました。
 学力問題に焦点をあててみます。2004年12月にふたつの国際学力調査の結果が発表されました。OECDによるPISA2003の調査と国際到達度評価学会のTIMMUSS2003の調査結果です。その中で「読解力」が前回の8位から14位に大きく下がったことが問題にされました。科学的リテラシーと問題解決能力は上位になっていました。しかし、このいずれの調査でもフィンランドはどの項目も一位になっていたのです。2005年の1月に当時の中山文相は「more competition」(もっと競争を)と言い、厳しい競争を教えることが教育であるとし、全国学力テストや学習指導要領の改定をすすめてきたのです。
 しかし、子どもの状況をみると、子どもたちの家庭学習の時間が減っていることや、特定のタイプの問題を極端にいやがるという傾向は見てとることが出来ます。自由記述の問題、長い文章を書く問題、じっくり考えなければならない問題をあきらめてしまうのです。はじめから「もうやらない」というわけです。数学の時間が楽しみ・勉強は楽しい、という点でも国際水準からかなり低くなっています。勉強は楽しくない、意味がないと考えている子どもが多いのです。知的文脈上のリレバンス(関係性・関連性)が不足しているのです。学習の中に「社会的」「文学的」「数学的」「市民的」回路をうちたてる必要があるでしょう。
楽しくなくても勉強する場合はどういう時かというと、「今やっていることが将来役にたつ」「今やっていることが意味がある」と思える時です。しかし、日本の子どもはこれも低いのです。社会的文脈上のレリバンスが不足しているということは「役にたつ」「意味がある」ということが少ないということです。「学校は仕事に役にたつことを教えてくれたか」ということにピンとくるかこないかが、学力観の違いになります。あとからこう考えることはあるかもしれません。しかし、小中高の時にこう考えて勉強していくかが、教育の問題として今ポンとでてきていると思います。
 かつて「日本の子どもは学力が高い」と言われてきました。できるけれど、わかっていない、ともいわれました。これは実質的には暗記をしていたのです。やればやるほどやることが増えます。苦役でした。やらなくなったら忘れてしまいます。学力の剥落です。90年代なかばまではそれでもなんとかがんばる、という雰囲気が社会全体・おとな・子どもにありました。がんばればなんとか生活できたからです。最初はたいへんでもあとで当たり前の生活ができたのです。「がんばれ!」というのは絵空事ではありませんでした。がんばることにリアリティがあったのです。
 この10年間で日本の社会構造に劇的な変化がありました。将来への絶望、未来への希望がないのです。日本型雇用慣行の崩壊、年功序列・学卒一括採用がくずれました。若者が正規の職につくのが厳しくなってきました。「派遣」という形も「6ケ月採用」という形も「正規」として統計処理されます。たいへんな社会になっているという直感です。セイフティネットのとりはずしも医療・福祉・教育の分野ではじまっています。「そういうふうになったのはお前が悪い」というわけです。政治の腐敗もひどいものです。勝った者は勝った者で「多少悪いことをしてもバレなきゃいい」ということで「もっとずるくやれ」というかけ声をかけてきました。でも、がんばりようがないのです。
 ところで、PISAの調査は「義務教育終了段階の生徒が持っている知識・技能を実生活のさまざまな場面で直面する課題にどの程度活用できるか」という副題がついています。「生きるための知識と技能」ということです。しかし、文科省は、リテラシーとかはどうでもいい、とにかく一位になりたい、ということでしかありません。学力テストや改定指導要領ではPISA対策がもりこまれるといわれています。
 教育のあらゆる場面で強者の論理がもりこまれます。「力」が協調されています。人間力・学校力などです。その力を数値化する、強化する、ということです。人間力・学校力などというのは数値化できるのでしょうか。
 若い先生たちは子どもといっしょに成長したいと思ってきました。しかし、それとは違う力が学校には働いています。雑誌「世界」の2月号でとりあげられた女性教師の自殺、若い先生たちにプレッシャーとして現れています。これまでの良い「教員文化」を内部から崩壊させられています。それは「失敗を許す」という文化が失われてきています。同僚制(コルディアリティ)が失われているのです。さいきん学校の職場で「仲間」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。学校・教師・子どもも競争の中で孤立化させられています。制度的保障をしようというのが教育基本法でした。変化の予感があります。子どもに対して為政者がコントロールしやすいようにしようというのが「態度を養う」ということです。ものすごい子ども不信です。教師に対しても「態度を養うことが崇高な使命」というのです。47教基法10条の規定を変えてしまいました。教師は行政の歯車のひとつにしようというのです。教師から自由を奪う、マニュアル通りにやれ、というのです。専門性とは何でしょうか。自由がないところに専門性はあるのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。教師の専門性の核になるものは「自由」と「共同」だと思います。
参照対象としてフィンランドの教育について述べたいと思います。今の時期にフィンランドに関心が集まったのはどうしてでしょうか。結論的にいうと「教育というのはズバッとわりきれるものではない。特別なものでもない。ボンヤリとしたものでよい」ということです。一方で文科省もフィンランドに注目しました。フィンランドの学者ポール・シルペレが来日した時、教育行政関係者が尋ねました。「特別なものはありません。フィンランド憲法の教育条項はわずかです。日本国憲法26条・23条の規定に似ています。これだけです。」と言いました。これを実現する努力するかしないかです。こういう価値をもった社会ではそのように子どもたちは育ちます。
 2004年にフィンランドを訪問した時にロヤーニという地方の町の高校生にインタビューする機会がありました。この町の子どもたちはおとなたちをみて成長しています。この町をつくってきたおちなたちから学んでいます。人との対話を大切にしています。自分がどう生きるかを考えさせられたと言います。刺激がなくてもつつましく穏やかに生きている人たちを見ています。大きな価値としては「夢や希望は皆違う。比べる意味はない」のです。親からも「一番になれ」と言われたことはないと言います。フィンランドの高校生ははっきりと意見をもって、社会や自然とかかわって生きていくという自信と責任をもっています。世界とつながっていることをしっかり学んでいます。
 学習についても物語の世界と現実の世界をつなぐ学びをしています。ゆったりと話し合うということです。フィンランドの小学校では母国語を大事にしていました。フィンランドの国語教科書を執筆したメルビ・バレさんのお話です。目的として子どもに考えさせることを第一にしています。答を書くことではありません。たったひとつの答を求めるのではありません。語り・聞き取ることの心地よさを味わえるものにしようとしています。」授業・教室というのは教師が子どもの話を聞く・語りの広場ともいうべきものです。探求的・探険的な学び方です。語り合いながらさがしていく、というものです。小学校低学年では、言葉を自分で語り、対話が繰り広げられることがのぞましいです。遊んだり、おはなしをしたりということです。教師たちは工夫しています。ヘルシンキだけではなく、北極圏の村でもそうです。
 このバレさんの話から導かれることは、正しい答に早く到達するのが授業ではありません。遊びから学びへ、ということでもあると思います。アニマシオンに通じるものがあると思います。小さな学校では家庭的な教室をつくります。教師の語りかけ方、内容・方法も変わってきます。フィンランドではだいたい一クラス20人前後です。少人数で対話するのです。教師の自由があります。行政も人々も市民も保護者も自由にやっている教師に文句は言いません。教師に対して信頼をよせているのです。フィンランドの教育の目的は特別なものではありません。普通の市民を育てることです。授業料も小中高大と「なし」です。結果の平等を求めています。地方分権がすすんでいて、学校に、教師に判断をまかせています。子どもに近いところで責任をとる、ということです。教師には研修権があります。教師に教育の自由を与えることです。そうすれば工夫して面白いものをつくります。若い教師も自信をもって教師をしています。「責任を伴うけれど、自由がある教師の仕事が好き」「教育に競争は必要なの?」「人生にとって大事なものを忘れてしまう」といいます。
 まとめにはいります。
 「競争でなく、平等で」学びのレリバンスの回路はなにかというと、楽しい、意味のある学びをどうつくるか、ということです。これをみんなで考えていきましょう。
人間の営みというのは、数値化された合理的な世界だけではなく、温かさがあり、今、その時を充分に生きるものとして教育を考えたいと思います。
 教育の専門家としての教師の教育の自由を大切なものとして守りきれるかどうかです。新たな「政治」の立ち上げが必要です。勉強ができる、学力が高いということと人としてまっとうな生活ができるということはリンクしないでいいと思います。生活が保障されてはじめて能力が開花します。政治的退廃を追究する必要があります。フィンランドの教育が日本の教育基本法を参考にしているという証拠はありません。でも似てくるのは当たり前なのです。


分科会


第1分科会 授業 
~授業で開く子どもの世界~
 

大森先生(5年目)の算数「若い仲間とつくった図形(5年)の授業」
 「今年おこなった授業で、子どもたちがとても活発に発言をしたのだけれども、意見が出すぎて子どもも教師も混乱し、最後うまくまとめられなかった授業なので、皆さんとその授業について一緒に考えたい」ということで、模擬授業「いろいろな四角形」をしました。
 わがままな王様とかえる君のペープサートとぬいぐるみを使って物語風に授業を展開。王様の指令でグーグループとパーグループに四角形を仲間分けをする。最後にはグーとパーは平行がある、ないでわけられていることがわかった。模擬授業のあとの意見交換では、教師が与えるのではなく、自分であれこれ考えて結論に至らせることは子どもにとって意味がある、混乱は悪いことではない、みんなで学び会う視点もいれるといい、などというさまざまな意見がでました。
 「子どもの問いを深め、子どもとつくる理科の授業」菅谷先生の5年理科「流れる水の働き」の報告――色々問題を抱えている子どもたちだが、意見の発表や学び合いを大切にし、理科で子ども同士の関係をつくれるようにしたいという願いをもってこの学習をすすめた。毎日のようにトラブルを起こし、みんなから疎まれていた子が、この単元になってから積極的に授業に参加し、中心となって活動し、クラスの輪の中にはいることができた。多摩川の下流や、酒匂川の上流などに実地踏査に出かけたり、自作の水槽で流水実験を作ったりと、熱心に教材研究を行って授業に臨んでいる菅谷先生。その他にも手づくりの小腸・大腸を用意して、消化・吸収の学習をおこなったことを紹介しました。
教師自身がその学習を心から楽しみ、教材にどう向かい合ったらいいか、探求することの大切さをみんなで共有した報告でした。生活に関係のある理科とは何かを見つめ直す必要性があるのではないかという意見も出ました。 (文責・坂井ゆりか)

 


第2分科会 教師 
~教師の挫折と再生Ⅴ・教師の苦悩~
 

  レポートはベテランのお二人からでした。
 阿久津さんは、自由な職場の経験とも比べながら、管理の厳しさ、忙しさ、話ができない職場の苦しさや発言することの難しさを語られ、日々追い立てられて極度に緊張してしまうと話されました。これまでやってきたことや研究してきたことをどう生かせるか、どう仲間をつくっていけるかを悩み、考えておられます。子どもにとっても、おとなにとっても、学ぶ姿勢、関わり合うこと、一人ひとりを大切にすることが大事だということを、実践のなかで示していけたら、と話されました。
 岩切さんは、周りのことがわからなくなる多忙化、無駄でもやるしかない絶望感、保護者や子どもとの対応の困難、管理職からのプレッシャー、業績評価の問題、「うつ」や内臓疾患で苦しむ教員の問題、定年前に辞めていく教員たちの現状を指摘されました。そして、苦しい時には職場を出て、ちょっと逃げること、人間としての自分を取り戻し、自分を客観視することが大事ではないかと提案されました。また、自分たちの教室でこそ教育を守ることができるはずだと話されました。
 会場からは、担任するクラスがまとまらず、管理職から「ダメ出し」を繰り返されて、「うつ」で休んでいるという若い先生の、やっと今は話せるようになった、この場で話せてよかった、という声が聴かれました。対応が困難な親子に苦しみ、初めて辞めようかと思ったというベテラン先生は、若い先生たちと愚痴を言い合いながらお酒を飲んだり、学校以外の場で仲間に励まされて、続けていられている、と話されました。別の若い先生は、若いと特に職場での発言が難しいこと、仲間うちで語り合うことは大事支えだが、一方で現実は厳しい方へ動いていってしまうということを話されました。
 コメンテイターの岩辺さんは、困難な状況の中で、「私」を失わないことや「重い荷物」を分かち合うことの大事さ、遠回りや撤退も時には必要なことを話されました。また、健康に、教師でない自分を豊かに維持すること、身近に、中ぐらいに、遠くにそれぞれ仲間を持ち、話し合い、新しい勇気を得ること、そして、状況に流されないよう、自分を客観視するよう、記録をつけることの大事さを話されました。最後に現場の教師の声をいろいろな場で出してほしい、と呼びかけました。  (文責・大日方真史)

 

 

第3分科会 社会と子ども 
~新たな時代をつくる市民を育てる~
 

■「押しつけられた『職場体験』を学びにするために~はたらくこと、支えあって生きることを学ぶ~」というテーマで、初めに町田の宮下聡さんの報告を聞きました。
 町田で市教委が全知友学校に実施させた五日間の「職場体験」は唐突で無謀な学校教育への介入でした。現場の教職員は市教委に再検討を求める請願を行う一方、中学生が“はたらくこと、生きることを学ぶ”とりくみの中に職場体験をとりこんで生かす実践を進めました。宮下さんは「自立を考える」をテーマに学年でとりこめる資料やシナリオを作成し、生活自立度を見直させたり、生活に必要な調度や費用を考えさせる「一人暮らしの設計図」、自分が世話になっているものがどのようにできているのかを探る「生活から見つける100の仕事」、さらに「地域とのかかわり」「はたらくためのルール」など多様で現実的な課題に中学生を向き合わせていきます。参加者からは「子どもがおとなの思いと出会うことの大切さ」や「学校と地域がささえあうネットワークづくり・受け入れ側も子どもをささえ育てたいと思えるように連携していく必要」などが指摘され、押しつけられた課題であっても子どもの成長に転化させるしたたかで柔軟な発想と実践の豊かさに深い共感が寄せられました。
■「豊かさって何だろう~NHK番組『地球データマップ』を仕様した授業づくり」を報告した本山明さんの授業実践は、ワーキングプアや広がる格差など現代日本の現実に切り込む魅力的なものでした。
 野宿生活者(ホームレス)が公園のベンチで昼寝をしている漫画のふきだしにセリフをいれる導入から、世界各国の貧富格差率予想『データマップ』による世界の現実とグローバル化の実態などの視聴覚学習を折り込み、「格差はなぜ生まれるのか」「格差社会を変えるために有効な政策選び」などを自分で考え、子どものなかに“対案”を育てていく展開は「学びをつくる」という名にふさわしいものでした。
 参加者からは「格差社会自体悪いことかの検討」や「勝ち組の労働条件の過酷さの資料」もほしいという意見とともに「授業の着地点をどうすれば」なと゜の質問もありましたが、問題意識を持ち、自分の考えが動き出すことが最大の学びであり、社会科は世界への参加を導く教科であることを再認識させる討議となりました。
 最後にコメンテイターの菊地良輔さんから、あらためて本来の教育基本法にあった「新たな時代をつくる市民を育てる」理想や「実生活に即した学び」のあり方の視点をもとに二人の実践の意義が位置づけ直されました。    (文責・佐藤 博)

 

 

第4分科会 子ども理解 
~子ども・親と心をつなぐ教室づくり~

 この分科会はふたつのレポートが出されました。ひとつは「失敗と喜びを重ねて子どもと生きる」という教師4年目の榊原卓也さんの報告で、もうひとつはベテラン教師である霜村三二さんの「愛と安心をつなぐ教室・・・親と教師が“不信のキャッチボール”をぬけだして『子どもへの愛』を共有した」と題するものでした。
 榊原さんは、新卒初年度からのとりくみをふりかえりました。榊原さんは「はじめ、子どもをなかなか好きになれなかった」と言います。子どもをできるできないで見てしまい、悪いところばかりをみていたようだと言います。親との対応にも歯車がかみあわずに苦悩していったと言います。しかし、本を読んだり、実践を重ねるなかで、自分を責めすぎていたようにも感じるようになりました。子どもに対してもできることをしっかり言ってあげられるようになりました。四年目で、今は「前より子どもへの想いが強くなった」と明るく結ばれました。質疑の中では若い教師を育てる親の気持ちがだされたり、小学校で英語の授業を困っているということもだされたりしました。 
 霜村さんは著書にもなった学級通信「らぶれたあ」のとりくみを紹介しながら、教育という仕事の核心についてまず述べられました。①子どもが愛おしい、②協力・共同、③自発性(オリジナリティ)、④自由(特に授業)、⑤開く(物理的ではなく)、⑥楽天性(真面目な人はいるけれど、面白い人は少ない)というのです。そして学校の現状を文責され、今年一年からずっともちあがった三年生を担任して子どもたちとのかかわりを紹介しました。質疑では「一人の子どもが変わると教室が変わる実感がもてた」などの発言がありました。
 最後に片岡洋子さんからコメントがありました。「保護者との関係でいえば、私は子どものPTAの役員で広報の仕事をしたことがあります。親どおしでとりくみますが、親どおしとても気を使いあっています。手探りで知り合っています。多様な親がいて、多様な意見があります。霜村さんのとりくみはそのスタンスがステキです。いえば『ゆるさ』です。できることは何か、ということで課題を限定することです。子どもが人間として成長していくのに、学校はそんなに重要ではありません。長い人生の中でいくつかの体験を重ねていくのです。霜村さんのとりくみをまねしたら倒れます。まねをするなら、子どもへのまなざしです。良い教師はどういう教師かということですが、数値化して評価しようというのだけは間違いです」 (文責・大谷猛夫)

 

次回集会は07年6月30日(土)を予定しています。今から予定ください。
それ以前は毎月第4土曜(4/28、5/26)に学習会を企画しています。あわせてご参加ください。学習会はいずれも6時からで池袋の会場をとります。まだ会場は確定していませんので、事務局に問い合わせください。