第6回集会


2月21日に「学びをつくる会」の第6回集会がおこなわれました。その報告です。 「学びをつくる会」は、一昨年第一回の集会をもち「深く豊かな問いを育てる学びの創造」をかかげました。その後、5回の集会、3回の学習会を重ねてきました。多くの教師、研究者、市民、学生、NPOの皆さんがこの議論に参加してきています。一方、教育をめぐる激動の中で、「学び」や「学力」の問題が大きな議論をまきおこしています。集会のおこなわれた前日には、東京都では都教委が中学2年生に一斉「学力テスト」をおこなうなどの動きもおこっています。
 そんな中、第6回集会は「学びと学力をめぐる討論集会」として、「生きる力と学力――今、求められている学びとは――」をテーマに広く討論することとしました。熱心な参加者が100名をこえ、真剣に考えました。
 まず、岩辺泰吏さんと本山明さんの2人から問題提起がありました。



問題提起Ⅰ:「“人として育つ”学びを」
          岩辺泰吏(葛飾区立飯塚小学校)



はじめに
 私たちは、戦後民主(民間)教育運動について開かれた論争のもとにしっかりした総括をしてこなかった。70年代の人権教育をめぐる論争、80年代の教育技術をめぐる論争、90年代にはいっての新学力観の問題について、現場も研究者もこの論争に真正面からとりくんでこなかった。これは文部省(文部科学省)側も同じである。文部科学省の改革は、いつも「なぜ」という説明なしになしくずしに学習指導要領を変えていく。だから、この困難な時代に共通な闘いの協同の指標も構築できていないし、国民的な理解・支えなしに政治も運動も力づくてすすめられている。
 そして、競争という唯一の方法に頼って、ますます不安と不信と不満をあおり、混迷を深めている。

今日、文部科学省側も使っている「生きる力と確かな学力」というのは1970年代に子どもの自殺者が増えるなかで、我々が出したスローガンである。
 30年前、子どもが「鳥になりたい」という詩を書いた。私たちの世代の時は「大人へはばたく」という意味だった。今同じ「鳥になりたい」という詩は「この場から離れたい」というメッセージとしてつくられている。
 「今日の喜びは今日のためにある」と思う。「今日をがまんすれば明るい明日がある」のではない。おとな自身が満足した楽しい時を送っていないのではないか。なるみさんが先週詩を書いた「今日も楽しかったよ~」という詩である。
 きょうが楽しかったよ~
きのうも楽しかったよ~
だから、きっと・・・・
あしたも楽しい
 って思ってるから
あしたも楽しくできる

 私が都教組時代にお世話になった雪見弁護士の辞世の歌がある。「身を病みて 夢は幼き日をめぐる」。病の床にあって、夢見るのは、幼い楽しかった日にかけめぐったことへの思いである。
 「おちこぼれ」という言葉には、ダメージがある。しかし、人間の人生にはなんどでもやり直しできるという視点から見る必要がある。人生バイパスありということだ。

1.いわゆる「基礎学力」の鍛錬について
蔭山方式が蔓延している。その傲慢さは目にあまる。70年代に近畿・東海のサークル連絡協で共通にあみだした「方式」があった。それが百マス計算、生活点検などでであった。70年代には全国に広がった。私の足立区栗島小でもとりいれた。生活ノートや算数カルテ(亀青小)などもつくったことがある。でも3年でやめた。楽しくない。80年代以降、いじめ、不登校、とじこもりが広がるなかで、これを救うことはできなかった。
 今これと同じことを○○方式として、個人の名前をつけて、全国に広げている。ここには「何人国立大学にはいったか」ということだけが基準になって、家庭をもまきこんで広げている。しかし、ここには本当の学力は何かという見通しがない。世界観、人生観、価値観がゆがんでいる。
「剥落する学力」といってもいい。忘れ去る知識なのである。「何を学ぶか」「どう学ぶか」「なぜ学ぶか」という問いがない。学校でともに学ぶのはなぜかという検討がない。蔭山氏は「要するに結論なのだ」という。ここが間違っている。
 「与えられた通りに、異議を申し立てず」「より正しく、より速く、より多く」覚える。「学力の低い子は、努力しない子、怠け者」というレッテルをはる。トレーニングの中で、「やり直しのきかない自分」「簡単にみえる階段(ステップ)もあがれない自分」を見出してトラウマに陥る。
 3年生を担任した時、「やり直しがきく。今からでも遅くない」という話をしたら、あるお母さんから「安心しました。小さい時から、ああすればよかったなどと思い、もう手遅れかと思いましたが、今からでも遅くないという話を聞いて安心しました」という声がかえってきた。
 私が尊敬する佐古田好一先生、小川太郎先生、矢川徳光先生の教育論は温かい人間味にあふれていた。「なにを、なぜ、どう教えるのかを常に問おう」(佐古田好一先生)
「子どもはランドセルと共に生活を背負ってくる」(小川太郎先生)「青少年に必要な3つの力―①団結の力、②知恵の力、③平和の力」(矢川徳光先生)
 先日、韓国の教師との交流があった。IT化がすすんだ韓国からわざわざ和光小、飯塚小を訪ねてきた。「黒板とチョークの学校」を訪ねてきたのはなぜかを考えた。それは「学ぶ楽しさ」を大事にしたいという期待だった。韓国の若い教師たちの夢を感じた。
 沖縄では、学校を立て直す時、すばらしいつくりにしている。エントランスをはいった時、図書館がすぐ横にある。図書館のワキを通って学校にはいる。読書こそ基礎学力と口をそろえて方っている。

2.「未来に少しはみだす力」
 「芯になる学力」について考えてみたい。 漢字を例にとる。文化として学ぶことが大事である。何回書いたか、訓練と鍛錬では「剥落」するだけだ。「成り立ちを学ぶ」「分解と総合を学ぶ」「漢字を楽しむ」などが考えられる。
 アニマシオンという「学びの改革」にとりくんでいる。「物語を読む」ということである。「書く」「読む」という学びも仲間とともに学ぶという楽しさをともなって生きてくる。
「ともだち紹介」という実践を紹介してみる。教室にじゃがいもをもちこみ、子ども一人ひとりに配る。自分のじゃがいもを友だちとして紹介する、という実践である。「僕の友だちジャガバタくんです」と紹介する。谷川俊太郎さんの「ともだち」という絵本での「友だち紹介」の実践も紹介したい。人間でなくても友だち、会ったことがなくても友だち。そして、ゆみこさんはアフリカの爆弾で左手を失った子と日本の女の子が共同作業している写真をみて、今、わが家に住んでいる友だちとして紹介をする。
 大江健三郎さんは「未来に少しはみだす力」と言っている。「少しちがった社会」「こうしたい」という「与えられた物語としての現実」から物語を読みかえ、つくりかえていく学びが必要だと思う。「変えることができる物語として世界を読む」ということである。
 学びというのは人と人を結びつけるものでなければならない。信頼と希望を育むものでなければならない。学校だけが希望をつくることができる。人々の信頼を培うことができる。
 読書の技術は簡単である。本を好きにする方法は簡単なのである。本を読む時、とっても素敵な笑顔で読むことである。「生きる」という希望を伝えるのも同じことだ。
          (岩辺さんは、この3月で小学校教師を定年退職をする)

問題提起Ⅱ
「子どもたちは意味のある学びを求めている」
             本山明(葛飾区立本田中)



 「受験勉強はよい学校へ行くためだけで、本当の勉強とはいえない」という問いに、高校3年生の54%、父母の63%が「そう思う」と答えている。<2002年NHK調査> 文部科学省のすすめる「確かな学力」も今はやりの「習熟プリント」も、それだけでは、この不満や不安を解消するものとはなっていない。
 参加型学習という手法を通じて、時事問題を考えあう姿を紹介し、「自分を主体化する学びと能動化する知識」をいかにつくりだしていくかを提起したい。
メディアをどう読むかが問題となる。子どもたちに「難民」の写真をみせる。難民が大勢ならんでいる写真がある。ならんでいるその先の部分を隠して提示する。そこに何があるかを想像させる。たくさんの難民がならんでいる先は小さいけれど、給水車のようなものがある。
 本田中の学習アンケートでも、本当のことを学ぶことが求められていることがわかる。
 イラク戦争の時の報道写真も使った授業をした。救援物資に群がる人々の写真がある。
このコンテナにたくさんの人が群がっているがその写真の上の部分を隠しておく。その上に何があるかを考えさせる。「アメリカの旗」「アメリカ軍の兵士」「イギリスの旗」などを書く子もいる。真実は、日本も含めた大勢のカメラマン(報道機関)の人がカメラをかまえていた。イラクの現実である。報道もだれが何のためにどういう意図でおこなうかも考えなければならない。
 砂漠の中で、兵隊が銃をかまえている写真もみせた。左側の部分を隠しておく。そこには何が映っていると思うか、である。これはテレビカメラのカメラマンがいる。アメリカ軍の訓練風景の写真である。この写真から何を読みとるか、そういうことを考えさせたい。
 今いわれている「学力」という言葉そのものがあいまいな内容だと思う。学力の全体像としてとらえることが大切だ。(法政大学の佐貫浩氏の「全体的な学力の構図」と「学習意欲の構図」参照)今の学力低下論は、基礎学力・習熟が探求的・創造的学習と切り離されているのではないか。競争的学習意欲の回路や学校的学習の意欲の回路のみが強調されているのではないか。子どもたちの様子をみながら話をすすめたい。
 子どもたちの学びへの要求をものすごく大きい。本当の学びを求めている。
 9・11テロのあった時も子どもたちは社会科の授業で討論をした。アフガニスタンへの報復攻撃があった時も討論した。
・・・・この討論の模様をビデオで紹介・・・・
昨年、イラクへの自衛隊派遣が決まった時は、社会科で経済の勉強をしていた。子どもたちから「先生、こんな授業をしている場合じゃないよ」というわけで、イラクへの自衛隊派遣について、是か否かの討論をおこなった。
・・・・この討論の模様もビデオで紹介・・・・
 この討論のあと、子どもたちは「知識が少ない」ことを述懐している。そこで、これをとりあげて憲法の問題、安保のことなどをとりあげたが、子どもたちの姿勢がまったく違う。体をのりだして授業にのぞんできた。ふだんはなかなかこうはいかない。自分の問題として、考えたいと思うと真剣にとりくんでいく。能動的な知識となっていく。
ここで実践上のポイントを整理したい。
・いかにして、子どもの主体をとおす学びにするのか。
・参加型学習、アクティビティのある学習方法をとりいれる。
・「何を問うのか」ということを教師は真剣になる。「学ぶことが意味があるんだ」と子どもが認識できるように・・・・。
・探求的・創造的な学びをつくりあげることに我々は意識を集中する。
・子どもが考えなどを表現することが大切なことだと思う。それに対し、教師や仲間が対話やコメントにより、つながり、ふかめ、ともに学ぶことがポイントなのではないか。

 私は市民教育の必要性を提起している。自分や地域、世界の問題に主体的にとりくめる教育の必要性である。世の中でおこっているさまざまな問題、身近な地域の問題などを自らが考え、ひもついていくことができるようにすることが必要である。

 

討論

 


 このふたつの問題提起をうけて、討論に移った。必ずしも、議論がスムースにすすんだというわけではなく、二人の提起に対する感想、周りで起こっている状況などでの「意見発表」という感も強かったが、多くの意見がだされた。
 出された意見を列挙してみると・・・・・・
(東京・小学校教師)岩辺さんのいう「読み書き算ではなく、読書だ」という話は胸に  ささった。学校だからこそ、子どもどおしのつながりを大事にしたい。教室の空気を大切にしている。本山提起に質問がある。意欲をはかる評価というのはどうしているのか。きいてみたい。
(大学・研究者)蔭山方式が本当に広がっているのか。あまりこれを使ってよかったという話はきこえてこない。どういう人たちがこれらの本を買っているのか。買っているのは親や市民という話もある。年寄りのボケ防止と主張するムキもある。
(東京・小学校教師)5年生をもった時、「今年は百マス計算やらないの?」と聞かれた。子ども自身の言葉が流れてしまって、単純化しているのに驚く。頭が良いか悪いか、カッコイイかどうか、強いか弱いか、これが子どもたちの基準になっている。これを解きほぐすのが大変である。総合で「落ち葉」の学習をやった。「落ち葉がなぜなくなってしまうか」を子どもといっしょに考えた。新しい発見をした。発言し、考えるなかで深く子どもの心にはいっていく。子どもたちの世界をていねいに保障することである。ともに生きる、自分を発見するということ。



(神奈川・小学校)担任をもちながら、司書担当もしている。学校図書館を身近にしていくことを実践している。本が常にそばにあるという状態にしたい。毎日、読み聞かせをしている。基礎学力は読書だと思う。
(東京・中学校図書館司書)先生が図書館に子どもを送り込んでくる。しかし、先生はそこにいるだけで、司書まかせになっている現状である。進路調べでも5分の1の生徒は雑誌をみたり、ウロウロしているだけである。主体的な自立した学びというのは白紙ではないはずだ。教師のアドバイスが必要。
(本山)自分が何を調べるか、自分にあったものがみつかるか、テーマを決めるまでの静かなひとときが教師からみるとイライラすることもある。今後の研究課題だと思う。
(富山県・小学校教師)百マス計算広がっている。親から要望がでた学校もある。くもんに行っている子どもも3~4名いる。英語をやっている子もいる。その子たちは確かに漢字も計算もできる。富山県では一斉学力テストをやって、80点以上に認定証をだすなどもおこなわれている。
(東京・母親)悩んでいる。下の子は小1の時、計算もできない。読みもたどたどしい状態だった。小2の時にひざにのせ、読み聞かせをした。読む力はついた。小6の時、くもんにいった。暗算もできるようになった。
 上の子は今、高1であるが、塾は意味がないといってやめた。感動した授業は家にかえってきて私に話す。「石油がなくなるかもしれない」授業だった。こういうのが良い授業だということはわかる。
(千葉・小学校教師)野田市で学力向上フロンティア指定校での話である。習熟度別学級編成をおこなって、算数と国語を少人数指導をしている。しかし、学ぶ意味とか、ともだちと学びあうという発想がない。「豊かな学びをやりたい」というと基礎学力に不熱心な教師といわれる。
「評価」が教員のしばりになっている。五日制にからんで、授業時数の問題もおこっている。
 またある学校では、学校で「国語のスキル」について統一し、それ以外の方法が認められない。教師の自由、授業実践の自由がない。
私たちの学校では授業をみせあい、子どもたちが主体的に学ぶ、ともだちといっしょに学ぶことを大切にし、くふうしようとしている。
(東京・小学校教師)まだ教師2年目。少人数教育ということで、算数の加配教師がある。4年生で3クラスを4クラスにわけた。習熟度でなく、均質にわけた。ひとりひとりにはたしかに目をかけられる。人数が少ない分だけ。しかし、子どもどおしのつながりがない(突然つくられたクラスだから)。ここまでやらなくちゃと追い込まれた気持ちになっていく。「むずかしい問題ちょうだい」と言ってくる。子どもどおしの教えあいがない。お互いわかってうれしいという感情がない。学ぶことが個人のところにおしこ・られている。
芯になる部分というのは何なのか。
円の勉強をした時に「マンホールはなぜ丸い」かを考えることをした。
(東京・小学校教師)管理職は外堀ばかり言っている。習熟度別学級では「到達したかどうか」だけが問われる。わからないことを共有できない。放っておいて子どもが主体的になるとは思えない。授業のやり方、しくみをしかける必要がある。小3で「重さ」の授業をやった。「片足で体重計に乗ったらどうなるか」を討論した。学びあうことがやはり大切。
(学びをつくる会・世話人)この会の方向を考えたい。「どんな力が育ったといえるか」「ペーパーテストの分析」を提起したい。評価の問題をずっと追ってきた。授業とテスト、教師の問題意識、教材論などを考えたい。



(東京・母親)今、学びとは何かを考えること大切。学力論争が続いているが、深刻なツケが子どもたちにまわってきている。①ドリル学習の復活、②学力調査の蔓延、③習熟度別学習の広がり、④総合はつまらない、⑤世界と学びがむすびついていない。先生方これを討論してほしい。
(本山)評価のことで一言。資料活用とか意欲とか、わけては考えられないものをわけようとしている。こまかくやると授業が固くなる。評定はおおまかに、評価はこまかく。教師からばかりでなく、他者からの評価もていねいに。
(岩辺)主体を育てる、ということで。幼児期から小学校期が大切だと思う。ききとることである。子どもの側から言うと「ききとられる自分」「安心してここにいていい」ということである。自問自答をはげましていくことだと思う。伝えあう仲間、わかりあう中間、というつなぎに「言葉」がある。やわらかい仲間をつくることである。新学力観は殺伐とした人間関係をつくりだした。教師はたいへんだけれど、「ひとを育てる」いちばんの基礎のところにこの仕事がある。
  デンマークでは「うけとめる」ということが民主主義だという。ディベートはとりいれない。ディベートは、相手をうち負かすアメリカの論理である。デンマークはこれをとらない。四月にはこのデンマークを訪ねる。

 この討論のあと、菊地良輔さんから「整理とまとめ」の発言がありました。内容は次の通りです。



整理とまとめ 菊地良輔先生

 きのう(2月20日)東京都の中2に一斉に学力調査が「大きく問題にされることもなく」おこなわれた。40年ほど前にも全国で一斉学力テストがあった。この時との違いを考えている。あの時は生徒側でも闘いがあった。全都で各地で白紙答案をだした生徒がたくさんいた。校内にも議論をよびかけるポスターもあった。今とは状況が違うので、なんともいえないが・・・。
学力問題は論争してこなかったのがここにきている。「学力とは何か」ということをここでは「学校で身につけさせようとする力」とする。こうしたい、こうすべき、ということを考え、どういう力こそ必要かを議論したい。「学ぶ」ということは道具や手段ではなく、文化を学ぶということである。学び方も大事になっている。知的認識、知的能力といっても学び方が人格を構成する。仲間を育て、学びあう、結びあうことの大切さは、二人の提起も討論もそうなっていた。
 また、親・地域とともに学校を開けるかということも課題だと思う。
 指導性と主体を育てる、ということも矛盾しない。フランスの教育学者ワロンの言葉に「子ども自身の関心から出発して、人類の関心とむすびつける」というのがある。
学びをつくる会は、一昨年に発足し、三年ということではじめた。これから何をするか決まっていない。皆さんの意見をだしてほしい。