2006年4月学習会


子どもたちの現状から、「学力」を問い直す

~子どもたちはどのような困難を抱えているのか~

~希望としての学びへの、実践的切り口とは~

 

コメンテーター 岩川直樹(埼玉大学)

 

小学校からのレポート 

桐生孝文(小平第十小学校)

 

1.職員室での“嘆き”

 「学力差が大きくて、できる子は飽きちゃう」(だから習熟度別を)

教科書どおりだから、塾で学習済みの子は飽きる。

答えが書いてあるのに、わざわざ手を挙げる気はしない。

大勢いても、1対1の学習(学び合いがない)

 

計算・暗記物バッチリ。でも、(新・学テでさえ)資料活用になると…

 

.私の考える「基本的な学力」

学習に対する意識(間違えることは悪くない、知らないことをわかるように学校に通う、間違いや疑問が学びを広め深める、知る喜び・学ぶ楽しさ)⇒こういう学習観をもたせたい。逆に言うと、こういう学習観を持たせられるような授業をしたい。

   「みんなで勉強すると、知らないことがわかるようになるね」(『たぬきの糸車』で)

「この勉強好きなんだ。いろんなことがわかっておもしろい」(保健室で)

   「同じ本を読むと、みんな同じように感じると思っていた。でも、ちがうんだねえ」(『ちいちゃんのかげおくり』で)

 

.目指している授業

学習全般からの逃避ではなく、一方的に教えこまれる勉強を子どもたちは拒否している」(今泉博氏)

「初めて知った」「そうだったのか」と、知識が広がりつながることに喜びを感じ、しかも自分たちの力で真実を解き明かしていく楽しみのある授業ができないか。

とはいえ、具体的な授業としてはどういうものなのか、不明確です。ご検討ください。

 

『玉川上水』<授業の様子と計画>

江戸の町

黒板に、模造紙大の絵を貼り、「何の絵でしょう」と問います。池、海、奥多摩湖かな、と次々に声が上がります。「奥多摩湖は人工なんだから違うよ」と言う意見に奥多摩湖説は消えました。「海が浅い」と発言した子に理由を聞くと「水中から草が出ている」との説明。「なるほど、草が出ているから浅いと分かったんだね。スルドイ。」さらに、「富士山がある」という重要な手掛かりとなる発言が…。江戸かなあ、というつぶやきも聞こえるものの、自信は無い様子。舟で何かを運んでいる、いや魚を採るんだよ、網がある、魚を干している、わらの家、侍がいるなど、時代や人々の様子が次第に明らかになっていきます。

「これは、500年ほど前の江戸の絵です」と話すと、予想通りと意外が相半ばした様子でした。当時は京都が都で、大阪が大きな町であったこと、江戸は都から遠く離れた漁師町、港町であったことを話しました。

1590年、その江戸城に徳川家康が入ります。ここで江戸の町の略図を黒板に描きました。町人地が埋立地にあること、隅田川が近くにあることなど、次時の学習で発見の手掛かりとなることをさりげなく伝えておきます。特に江戸城が台地の端にあることは重要な布石です。

やがて武士の勢力争いに家康が勝ち残り、1603年に江戸が政治の中心になったことを話し、ここで質問です。「政治の中心になると、江戸はどうなっていくでしょうか。」

「賑やかになる」「ということは?」「人が増える」「そう、人口が急に増えたのです。」

1603年頃は15万人でした。小平市が17万ちょっとだから、それより少し少ない。それが30年ほど後には30万人になりました。」「さらに30年ほどたつと…」「60万」と声が上がります。「2倍になるの?」と訊くと、「そんなに多くないよ」「50万ぐらい」「45万」と口々に。「実は…」と言って80万人と書くと「そんなに!」

やがて江戸の人口は100万人を超え、世界一の人口を抱える都市になることを話して授業を終えました。

 

水を求めて

「江戸の人口は急激に増えました。すると、ある物が必要になります。なんでしょう。」

食料、水、家、土地が挙げられました。「どれも必要な物ですね。この中に、江戸には足りなかった物があります。」「土地は足りるよ。今も住んでいるんだから。」の発言や立体地図を元に、住居や農地には困らないことを確認。江戸に足りなかった物は水であることを突きとめました。

当時、わずかな湧き水と溜池の水は有りましたが、急増する人口をまかなうことはできません。

「どうやって水を手に入れたのでしょうか」

「川の水を飲んだ。」「どの川?」「多摩川かな」これは意外。水道の学習の効果かもしれません。「玉川上水」がいきなり出てしまい、予想していたとはいえ少々慌てます。「玉川上水はまだできていなかったのです」とあっさり通過します。「井戸を掘った」との意見に、「埋立地だから井戸は海の塩水が出るんじゃないかな」とスルドイ発言。ところが「土の中を通ると濾過されるから塩が無くなる」「姉ちゃんが塩の結晶を作ったときに、1ヶ月ぐらい塩水を置いといたら塩水じゃなくなった」と話がそれて行くので、井戸を掘っても、大部分は塩からくて飲めなかったことを話しました。

「隅田川の水を飲んだ」というので「どうやって?」と問うと「何かに入れて運んだ。」これには、「遠いんじゃないかな」という疑問の声。江戸城付近から隅田川まで3kmぐらいであることを話すと、それは無いな、という顔。

「汲みに行かなくても水を手に入れる方法は無いだろうか」と促すと、「人工の川を造った」との意見がでました。「そう、川を造って水を引いてくれば、汲みに行かなくても手に入りますね」と、小石川上水と、それに続く神田上水の話をしました。

それでも、これら中小河川では不足していきます。どうしたでしょうか。

「隅田川の水を引いた」

「実は…」と言って立体地図を示し、「多摩川の水を、ここ、羽村市から引いたんです」と話すと、どうしてそんなに遠くから、と驚きの声が上がります。

「どうしてこんな遠くの羽村から引いてきたのでしょうか」と問うと、隅田川の水が汚かったから、低地には人が大勢住んでいて川を造れなかったから、海水が混ざってしまうから、上流の方が水の量が多いから、といった意見が出されます。「隅田川では、引くことができないのです」とヒントをあげると、「西の方が高いから勢いよく流れる」と核心に近づく意見が出され、同様の発言が続きました。そこで、「水を引きたかったのは低地だけではなく、台地の上にある江戸城や武士の町にも水を引きたかったのです」と情報を与えます。すると、「低地と台地の間に段があるから、隅田川からだと水が流れない」という発言もあり、そうだったのか、という納得顔がちらほら見られました。

しかし、地形と関連付けて考えられない子も多いので、次の時間に地形図を使って、具体的に学習します。

 

水を求めて(その2)

山地、丘陵地、台地、低地を塗り分けた地図を見て、台地を刻む中小河川の谷を避けながら台地の江戸城に水を引くには、羽村近辺から引くしかないことに気づかせる。応用として、湯島の台地の水道(千川上水)は、どこで玉川上水から分水しているかを考えさせる。

玉川上水を作る

傾斜が浅いこと、四谷大木戸からは地中配管したこと、玉川上水掘削の伝説

木樋の写真、水道井戸の絵

玉川上水と農民

上水沿いに掲げられた高札を読み解き、近隣の農民の苦労を知る

分水と新田開発

幕府(吉宗)と農民の意思が一致して、新田開発が進んだ。新田地割のこと。

分水の発達

地図から自然河川の無い武蔵野台地の様子を知る。

赤土、芝行水、まいまいず井戸。

分水を記入した地図

小川九郎兵衛と小川村

新田と伝馬継ぎのために村を開く。(『わたしたちの小平市』を使って)

進む新田開発

分水により81の新田村が。(『わたしたちの小平市』を使って)

 

<参考資料>

『上水記』石野広通 東京都水道局

『上水記考』恩田政行 青山第一出版

『玉川上水―親と子の歴史散歩―』比留間博 たましん地域文化財団

『たのしくわかる社会科4年の授業』歴史教育者協議会 あゆみ出版

日本人はどのように建造物をつくってきたか4 江戸の町(上)』内藤昌 草思社

 

 

 

大谷猛夫(足立区立東島根中学校)

1.子どもの置かれた環境

足立区は日本一就学援助率が高い、と報道された。格差が広がっていることの象徴としての報道であったが「足立区は貧しい地域」という側面が強調されたこともあって、足立区の教育行政は「就学援助率」をさげようという方向で施策をおこないはじめた。①手続きをしにくくする、②基準をひきさげようとする、などである。しかし「義務教育は無償」のたてまえからすれば、就学援助が高いということは憲法の理念に近づいた施策をしていることともいえる。

それにしても親の生活が困難なことには変わりはない。家庭の環境が子どもの学習環境を規定している。小さい時からの「学習塾通い」がままならない、ピアノやスイミングなどの習い事も多くはない。他の地域にくらべ、習い事の比率は低いともいえる。家庭での学習する「場」の保障も充分ではない。宿題を出しても家でやれる状況にない家庭も多々ある。狭い部屋で小さい子どもがかけずりまわっている中で、どうやって宿題をやれ、というのか。ある子は都営住宅に住んでいる。弟、妹もたくさんいる。一番小さい子はまだ保育園である。両親はそろっているが、とも稼ぎの親が帰宅する時間は早くない。遅い夕食をとると、下の子どもたちは寝る時間になる。そのあと、宿題をやろうとするが、自分も眠くなってしまう。家庭学習はいつやればいいのだろうか。両親が共働きで朝早くから夜遅くまで仕事をしている子もいる。朝が起きると親はもういない、こんな状態は小学校からずっとそうだ。さいきんは長期の休みになると仕事に連れていかれる。小さい時から勉強はきらいだったから、この仕事をしようかな、とも思い出した。

また、親のどちらかがいない、という家庭もたくさんある。死別もあるが、生別もかなりある。母子家庭の多くは、母親が昼も夜も仕事をしている。夕方一度帰ってきて、食事をつくってまた夜の仕事にでていく。夜遅くまで仕事をしていて、母親は朝起きられない、だから朝食を食べてこないことが多い。学校から家に帰っても一人ぼっちである。両親がいても親が仲が悪く、家がおもしろくない、という子もいる。ケンカが耐えない両親をみているのがいやで、なかなか家によりつかない。夜遅くまで遊んででいる。ゲームセンターに行けば、同様の状態の子どもがけっこういる。他校の子と仲間になり、夜遅くまで遊んでしまう。学校なんかもういいや、という気になってしまう。

虐待もある。

 

2.文化状況は

ゲームセンターのことを書いた。東島根中の校区に「セガ」がある。近隣の中学からたくさんの子どもたちが集まってくる。夕方六時以降は中学生は出入り禁止である。放送ははいる。「中学生以下の人は帰りましょう」と。でも関係ない。遅くまで「商売」をしようという企業が一方にある。お金を使う。金銭感覚もマヒしてくる。経済的には貧しいはずの足立区で子どもたちはお金をこういう企業にまきあげられていく。ゲームに夢中になるゲーム脳のことはよくわからないが、いろいろ影響がでているような気がする。

携帯電話もだれでも持っている。漢字まじりの作文はできない子もいる。算数の計算もかけ算がやっと、という状況。でも、携帯をもっていて、メールをしている。漢字変換はできない。それでも携帯電話代が月に数千円も支払っている。

 

3.中学生の卒業後の展望

東京都は都立高校の多様化の中で、いろいろな「高校」をつくっている。チャレンジスクール、エンカレッジスクールなどという「勉強ができなくても」はいれる高校もつくった。「高校」という名前のつくところに進学したければ、こういうところもあります、というわけである。しかし、現実には「ここにもはいれない」多数の中学三年生がいる。足教組の調査では、今年三月の足立の中学卒業生のうち、全日制高校進学は89%であった。はじめから定時制高校を希望した者、結局どこにもはいれなかったものが10%近くいる。「底辺」の競争が激化している。親の経済的な状況もあいまって、希望を失わさせられている状況がある。一方では、都教委のエリート校づくりはどんどんすすんでいる。入試問題の自校作成校が増えている。これらの高校では難しい問題を出題し、この点数をとらなければ合格できないしくみをつくりあげている。「エリート校」への競争がはげしい。中学三年の教室は同じ空間を共有しているが、まったく異質のふたつの受験競争が存在している。①「高校」という名前のところに行けるかどうか、②「エリート校」への競争、である。子どもたちの気分の中に同じ中三の教室にいてもなかなかいっしょに学習しているという実感がもてない。

一方では「難しいテスト問題」をくりかえし解いていくことが「勉強」になっている子がいる。もう一方は「エンカレッジ・スクール」に合格するには、なんとかとりつくろって、自分をアピールできればいい、教科の成績なんかどうでもいいのである。部活をどれだけやったか、などが問題なのである。これらの子どもたちが高校で輝いているだろうか。

 

4.中学校の学習・・・・

友情と連帯・・・・同じ教室で生活する仲間が手をとりあって共通のとりくみをする。自治を育てる、とか共同のとりくみをする、ということで、文化祭・体育祭・宿泊行事・卒業式などを子どもたちの手でつくりあげることにがんばってきた。

同じクラスの仲間と手をとりあっていくのは、同じ悩みを持つ仲間として、お互いを知り合い、助け合い、協力しながら、ひとつのこと(もの)をつくりあげていくことが学習だと考えてきたからである。それぞれが持つ個性を大事にし、わかりあい、ひとつの目標にむかって力をだしあうことができれば、「やったぁ~」という充実した気持ちを共有することができる。お互いに演奏する楽器のことはよくわからないけれど、指揮者を中心にひとつの曲をつくりあげていくオーケストラのようなものである。となりにいる子のことは良く理解できないけれど、同じ土俵で共通のものにむかっていくことの心地よさを実感できる。だから、運動会の種目でも一人の個人の力に依拠するものではなく、時間をかけて練習すればするほど上達し、みんなでやらないとうまくいかない種目を心がけることである。大縄跳びとか三十人三十一脚などがやっていておもしろい。文化祭でも準備や練習にみんながとりくまないとうまくいかないものがいい。放課後みんなで残るという時に「塾がある」と帰ってしまう子に対してどう働きかけるかなども課題になってくるのである。「手をつなぐ」ことである。

授業の課題と目標・・・・教科の授業ではどうか。私は社会科の教師なので、世の中でおこっていること、人権・平和・民主主義などという価値にせまるような課題をとりあげていく。ツッパリたちは「自分たちが差別される」のはいやだし、だれかが差別されるのを見ているのもいやなのである。さいきんはそうでもない側面もあって手をやくことが多いけれど・・・。明治時代の「徴兵制」の授業をやっても「オレなら醤油を飲んで徴兵検査を免れる」という発言をするのはふだんは学校間抗争にあけくれるツッパリたちである。日本軍の戦争加害のことを考える授業をしても「悪いことをしたら責任をとる」という当たり前のことをきちんと言えるのもこの子たちである。子どもたちが考え、意見がいえる授業になっていないといけないと思う。子どもたちが意見を言えるためのテーマや資料をどう提供するかも大切なことだと思う。「考える」授業である。

体験についてひとこと・・・・職場体験がおしつけられてきている。仕方なくやった。この3月に。たった一日。受け入れてくれる事業所探しも教員の手づる。子どもたちに体験したい職種を出させる。自然に働きかける仕事がしたい。建築関係の仕事がしたい。法律関係の仕事がしたい。中学二年生の「やってみたい」はいろいろある。 建築関係の仕事を、ということであっちこっち電話をしてたのんだが、多くの大工さんは「いつ仕事がなくなるかわからない。そんな先の日を言われても引き受けられない。第一危なくて中学生に体験なんかできないよ」というのが多かった。法律関係をということで、弁護士事務所などにも連絡したが「中学生にやってもらうことはなかなかありません。事務所の掃除ぐらいしかないのでは・・・」などといわれてしまう。また、東京の今の現状で農業はなかなかない。「自然に働きかける仕事がしたい」という子には卒業生の親の中に「花屋さん」を紹介した。この花屋さんは朝六時に来い、という。花の市場につれていってくれて「花のセリ」をみせてくれた。この子は帰ってきてこのことを生き生きと話す。この子が学校で声をだして教師に積極的に話をするということがこれまでなかった。これまで生きてきたなかでの「生き方」をひっくりかえすような体験だったようである。「花も魚や野菜にみたいに手で合図しながら売り買いするんだ」などと話していた。花を売る仕事をその後体験し、店の体裁を整えたり、掃除をしたりということが中心だったが、セリの体験がとても強烈であった。

  結局体験できるところは129人の生徒に対して40ケ所の事業所にお願いしたが、小売店(地域のスーパー・コンビニ)、保育園・幼稚園・老人ホームなどの福祉施設、消防・警察・保健所・区役所などの官公所などしかなかった。製造業もなかなか厳しい。数は少なかったが、金属加工・製菓・電気工事業で少数体験できた。地域の新聞社にはいって取材をしたり、リサイクル館で再生品をつくったり、区役所では区の広報ビデオの作成をしたりなどの「後に残る」体験をした子たちは「やってよかった」という声もあった。仕事の内容・働くことの意味・やりがい、などを体験できれば意味もある。どういう形でやっていくかも考えたい。「人とのふれあい」ということで「あいさつ」だけが強調されたり、礼儀が強調されたり、奉仕の心が全面にでたり、という職場体験では意味がない。