第13回集会


 6月23日に「学びをつくる会」の第13回集会がおこなわれました。その報告です。
 今回の集会は、「人と人とをつなげ、学ぶことと生きることを結ぶ」をテーマに講演と分科会をもちました。参加者は80名あまりでした。学校全体に教師の若返りがおこなわれている現状のなか、今回も若手教師、学生など若い参加者が多かったことが特徴的なことだと思います。広がりを感じています。
 今回は集会直前に「学校教育法」「教員免許法」「地方教育行政法」のいわゆる教育三法が改悪されるという情勢の中でおこなわれました。また四月には全国一斉の学力テストが強行されています。

午前の部は佐貫浩さん(法政大学)の講演です。たいへん熱のこもったお話でした。その概要です。

 

講演:「学力テスト」攻勢の中で、
         本当の学力と学びを考える」
佐貫 浩法政大学)

今日の「学力論」は、具体的な教育現場の格闘と離れて、どこか“あっちの方”でやっている”感じがあるのではないでしょうか。今日は、それを「こっち」の方にもって来ることを検討してみたいと思います。

1. 教育再生会議の「学力論」
ハーベイの『新自由主義』(渡辺治監訳)を読みました。その中では、新自由主義を、グローバル資本による国家権力の奪取という政治的本質において捉えています。日本の小泉・安倍政権も、グローバル資本と結びついて新しい権力形態、国家の形を作り出しながら、それに合うように教育の形も変えていこうとしています。
 しかしだからこそ、安倍政権は、公教育の今日の困難と正面から向き合うことができなくなっています。学力の危機が言われているにもかかわらず、教育再生会議の学力論では困難を生み出している根本にメスを入れていません。
 学力困難をもたらしている問題、すなわち、①学習意欲の喪失、崩壊、②底辺層の生活困難や人間としての自立の獲得における困難の増大、③学校教育政策において固有の「おちこぼれ対策」の欠落、④学級崩壊やいじめなどの学校生活の荒廃、⑤きちんとした指導の充実を欠落させた「ゆとり」政策の大きな欠陥、⑥教員定数の増加や少人数学級の実現の拒否、⑦そういう土俵の中でただ個人を競争に誘い込んで学力を高めるとという戦略一本槍の教育政策、⑧大学をはじめとする学力評価基準の詰め込み主義的画一性、⑨さらにそういうシステムとつながった学校の学習の機械的伝達主義、などです。
 そういうなかで教育再生会議は学力回復のための4点セット――①非常に一面的な陰山式風の基礎学力論、②明確ではないがPISA型学力論、③意欲やパトスの点で生活力や国を愛する態度などの生活態度などの押しつけ的な形成、④学力テストを中心とする評価と競争システムの形成――を出しています。その結果、さまざまな問題が生じていきます。
 第一は競争によって子どもを学力にむかわせようという人間観に依拠している点です。この背景には労働現場における成果主義的人間評価論があります。労働能力の評価が点数評価になっていて、これが学校現場にもちこまれているのです。その為、主体性や目的意識によって統合されるはずの人格がますます解体の危機にさらされつつあります。
第二は学習指導要領で学校をしばるにとどまらず、テストの結果でしばっていくというシステムの採用です。国家が公教育内容を深く管理し、日々の教師の教育活動の内部にまで入り込んで統制が機能する事態が出現しつつあります。
第三は民間教育産業の関与です。学テの記述式の採点についての基準がコロコロ変わっているということが指摘されています。もともと記述式の問題は、教育に携わっている教師が子どもの顔を思い浮かべながら、考えて採点していくべきものです。それを一律に民間企業に委ねてしまうことはたいへん問題です。この学テを契機に学校教育に民間企業が深く入り込み、教育のノウハウを蓄積して、学校教育に深く浸透しつつあります。

2・学力の構造

 私は学力を①基礎知識の層、②習熟の層、③表現・創造の層、の三つの層によって成り立つという仮説で考えています。この図の左の三角形が三つの層から成る学力の全体像を示しています。基礎知識というのは人類の文化遺産の継承だと考えていいでしょう。
 習熟については、課題と格闘して(意識化の過程)、知識を使いこなせるようになるという過程で、そのなかで、知識の理解が深まります。さらに人間の思考力、判断力、表現力などの諸能力が高まっていく過程でもあります。その過程なしには、人間は知識を自分の目的や課題に沿って使いこなしていくことはできません。どんな知識が必要かという知の必要性が意識化されるということもあります。
 同時にその過程で、使いこなされた部分の一部が無意識化されていきます。その無意識化された思考や知が蓄積されていくことで、意識的な思考がより豊かに展開されていきます。無意識化としての習熟を否定してはならないと思います。かけ算の九九や漢字の訓練などはその無意識化の習熟だけを取り出して鍛えるもので、そういう訓練が必要な部分もあります。しかし重要なことは、習熟的学習のエネルギーの核心は意識化の部分にあるという点です。自分の課題と取り組み、その解決のために、ああでもない、こうでもないと解決方法を試行錯誤して色々なことを発見し、それらを明確な論理で把握し、記録し、まとめ、課題を達成していくようなプロセス=意識化の習熟の過程が非常に大切です。
 人間の学力というのは、この習熟の過程によって第一の層、第二の層、第三の層が一体となってより高いものに発展し、目的・課題=生きることにつきささっていきます。これが縦ベクトルの学力です。このベクトルで、生きる力に繋がる学力が展開していきます。
 日本の学力構造は、第一の層の基礎知識だけを沢山貯めていくというものです。知識の記憶だけがテストで計られます。この学力を「横ベクトルの学力」と呼ぶことができます。日本の学校の学習では、学力に縦ベクトルが欠落しているのです。総合学習は縦ベクトルで考えたという側面もあります。しかしその為には、習熟が不可欠で、それに見合った丁寧な指導体制が不可欠です。それなしに総合学習をやれと行っても好き勝手なことをしただけに終わってしまいます。横ベクトルの先にあるのは「競争」です。勝たなければなりません。 縦ベクトルで、学んだことが使いこなせて、自分の存在が豊かになる学習体験を持てれば、「学んでよかった」という実感が形成されます。

3・「PISA型」学力とは何か
 コンピテンシーという言葉があります。能力と訳されていますが、これには3つあります。①目的をもって計画し、参加していく力。②他者とつながり、協同していく力。これはヨーロッパの市民社会を前提にしています。③知識・技を使いこなす力、です。PISA型テストはこの③の「リテラシー」を計測するものです。
 日本の中にPISA型学力テストで、日本の学力の歪みが正されるのではないかという期待があるように思います。しかしOECDのコンピーテンシー論は、①と②のコンピテンシーを土台としています。日本の子どもの場合、この土台が欠落しています。日本では生きることが協力することではなく競争になり、戦闘空間で生きることを訓練しているようなものです。生きる意欲は競争で組織されており、本当の生きることにつながる目的、課題意識が奪われているのです。能動的に生きる土台とつながってこそ、学習した知識が生活で使いこなせ、そのなかで習熟することで、リテラシーが高まるのですが、そういう文脈が日本にはないのです。囲い込み型の受験学力競争が、そういう人間として生きる土台を破壊しているのです。そういう土台の上に、ただPISA型テストを導入しても、根本的矛盾があり、知が生きることにつながらないのです。
 PISA型学力は、上から降ってわいたような感じで行われていますが、70年代~80年代にかけての日本の学力論は、この構造を組み込んでいたのです。坂元忠芳氏の学力論を想起してください。坂元学力論は、①「わかることを生きる力に結びつける」ことを課題にし、人格と学力の関係を解明しようとし、②当時の論争相手であった鈴木秀一・藤岡信勝氏の学力論が体系化された教育内容(外的なもの)の獲得を学力の構造と同一視したのに対し、人格の内にある内的なものの発達を組み込んだ学力論を展開し、③学習意欲に「認識的側面」と「人格的側面」があるとし、その弁証法的な相互作用を学力に向かう内的エネルギーの構造として位置づけました。この蓄積を踏まえなければ、PISA型学力を日本的土壌の中で批判的、創造的に考察できないと考えます。

4.戦略化したコミュニケーションの克服
子どもたちが生きることを拓いていくための力として、表現力・コミュニケーション能力が必要ですが、コミュニケーションの病理を踏まえる必要があります。
さいきんの人間関係はどうでしょうか。葛藤のタネが増えていて、傷つく関係を回避しようとして意図的に人間関係を希薄に演じようとしています。暴力性空間では、「それに上回る力で対抗する」「暴力に同調する」「暴力をみてみぬふりをする」「自己を閉ざす」などの戦略が選ばれます。いじめ、競争、孤立、虐待などに対しても同様です。メールは他者との関係を不安定にしないためのメッセージであり、戦略化した表現です。そこでは自己表現が、同調や服従の表現に組み替えられるのです。また正解を追及する空間として、表現の自由が教室にはありません。戦略化したコミュニケーションは、他者とつながることを妨げます。言葉による共感関係、誠実な応答責任関係が衰退・後退しているのです。これを打ち破るコミュニケーションを回復する取り組みが求められています。

5.今日の教育実践の基本性格
『 現代と教育』73号の山崎隆夫実践はこのことを克服していく実践です。青森の津田八洲男実践もそうです。津田実践は生活綴り方の実践です。日記ノートを一人二冊ずつ配り、何を書いてもいいと人間的本音を引き出し、心のふるえが共感しあう空間を作り出しています。大阪の千代田高校の実践もそうです。「自分はバカで勉強はできない」というのは自己責任ではない、権利として「勉強をわかりたい」ということを回復していくとりくみです。力のないものは脱落していく、いきること自身がむなしくなっていく、という現状を回復することなしには学力回復はできません。
 教育再生会議は「荒れ」をとりしまり、学力競争で学力をあげようとしていますが、これでは克服できません。ここに紹介したクラスはお互いを人間的に支え合っています。そして生活と学習をつなぐ学習空間を作り出しています。生きる知恵が活性化されています。
 「意識化」の問題にふれます。生活綴方の恵那の石田和男さんの授業を受けた生徒が書いた手記があります。「苦しい中にも、値打ちがあることは何かを模索し、自分を見つめ、どうすべきかを考えている自分がいました。石田先生のはげましのまなざしを感じ、恐ろしいほどの気迫で課題に向かっている自分がいました」と。パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』は、「銀行預金型教育」を批判し、民衆が主人公になるには、民衆自身の生活に価値があり、民衆自体が自らの生活とたたかう主体になること、そのためには対話の教育が不可欠であることを指摘しています。子どもの荒れがある場合、困難に子どももともに向かい合うかどうかです。管理し、取り締まり、おとながコントロールするのでなく、子どもたち自身が、人間として自らを復活させるために、その課題に意識的に取り組むことが大事で、そういう意識化を教師が支え励ませるか、そういう意識化へと繋がる対話を子どもとの間に教師が作り出せるかが問われているのです。その意識化の中で、子どもたたち自身のすごい力が発揮され、驚くほどに自分を成長させていくのです。それは子どもが生きていく主体になるその核心の課題と見通しを、自ら自覚するということです。
 「習熟」の問題について補足します。島根県の中学教師の多久和祥司さんが、『教育』の8月号に実践報告を書く予定です。その総合学習は、わたしの言う「習熟」の一つの典型だと感じました。ぜひお読みください。
 環境問題が注目されつつあります。2050年はすでに恐ろしい世界になっているかもしれません。イースター島の人びとはなぜ滅びたかが教訓的です。豊かな椰子の森林を部族同士の争いに勝つためにどんどん切り、それをだれも止められなかった。環境が破壊され、やがて食料が無くなり、最後は人肉食にまで至り滅びていったと言われています。今、多国籍資本も、新自由主義国家も、この環境問題を解決できません。エネルギー消費を削減し、人間の生活と産業が環境とのバランスの上に再構成され、世界の不平等が根本的に改善されなければなりません。金持ちが、金の力でエネルギーを大量に消費するシステムを断念しなければなりません。この緊急の人類的課題に取り組む新しい政治、政府、権力、そして私たちの価値観や生活習慣が求められています。そういう問題を子どもといっしょに考えていかねばなりません。学校は地球の危機を回避し、新しい世界と未来をつくりだしていく激しい学びの場、そのための共感と協同の場に組み替えられねばなりません。




分科会


第1分科会 授業 
~授業で開く子どもの世界~
 

1. 生活科「集団で学ぶ楽しさを知る低学年教育」 小倉先生の報告
 25年の教師生活の半分くらい低学年の担任をしているという小倉先生。1年生では「お話がいっぱいできる子に育てたい」と考え、実体をともなった言葉の獲得ができることの大切さ、話したことが受け入れられ、みんなの学びにつながることの大切さを中心に、日々の丁寧な実践を紹介してくださいました。毎日行っている「しぜんのたより」の報告では、お互いの発表のよさを学び合う毎日の積み重ねの中で、子どもたちが発見したことや出会ったことを詳しく見つめ、話したり、書いたりし、身に付ける豊かな表現力に参加者一同脱帽でした。
ワークショップの形で「紙くるくる」や「紙トンボ」、「ストロー笛」などの理科工作を、参加者も作り方を教えてもらいながら、作り方や実践の工夫についてお話いただきました。ものづくりを通して何かを発見していくこと、実物に触れ、自分の言葉でまとめていくことで子どもの学びが深まることが分かる報告でした。
2. 「楽しくなくちゃ授業じゃない」 吉澤先生の報告
教師になって今年で6年目となった吉澤先生。4年目くらいから「こんな授業が前からしたかったんだ」と思える授業の形が初めて見えてきた。しかし、5年目、5年生を担任してなぜか子どもたちにイライラしてしまう自分がいた。「こうすれば楽しくなるはず。去年うまくいったんだからできるはず!」という自分の中にできつつあった法則がうまくいかないもどかしさ。子どもの思いを受け止められない自分を振り返り、「待つ」ことを大切にしながら教師として忘れたくない感情を模索している様子を正直に報告してくれました。6年目の今年は、「とにかく楽しい授業がしたい!」と開き直り、縄文土器のニセもの探しの実践など、子ども達の知的好奇心を高め、意見が重なり合っていくような実践を目指している報告でした。
(文責・坂井ゆりか)

 


第2分科会 教師 
~教師の挫折と再生Ⅵ・教師の苦悩~
 

  今回の第2分科会では、三本のレポートがあった。①静岡県・中学校女性教諭(Nさん)の「新採1年目の苦悩」。②東京都・中学校男性教諭(橋本敏昭さん)の「学校と教師の現状~足立から」。③20代・元小学校男性教諭(Sさん)の「教職4年目で、退職にいたった理由(わけ)」。
 それぞれ簡単に振り返っておけば、①では、「新採1年目の苦悩」=「辛かったこと」として、まず、「早朝勤務」や「部活動問題」、「求められる初任者像」の問題が語られた。Nさんの語りを聞きながら感じたのは、これらの問題が、普通の教師たちが望むまともな願い(例えば、「授業がしたい」とか「子どもと向かい合いたい」など)とは異なり、管理をする側からの一方的な命令によっているということである。Nさん自身、このような状況のなかでも、さまざまな人びと(家族、先輩教員など)に支えられ、「できないことはできないと言う」など、自分を保ちながら現在に到っている様子が話された。
 次に、②「学校と教師の現状~足立から」では、足立区の昨今の教育改革を中心に見据えながら、現在の教職員が追いこまれている原因や学校選択の自由化・一斉学力テストの問題点、人事考課制度による教育現場の破壊などについて報告された。私自身、報告者の「現在の教育改革は、そのしわ寄せ(矛盾)の集中点が教職員に向いている」という発言や「それに立ち向かう大きな連帯を教職員だけでなく父母と地域を含めてつくっていくこと」の必要が語られていたことなどが鮮明に記憶に残っている。
 三人目Sさんのレポート「教職4年目で、退職にいたった理由(わけ)」では、まず、2007年3月で教職をやめた経緯(「うつ」という精神疾患にかかり、休職から退職へ)について話され、その後、「今現在の私の将来展望」(教育と福祉の関係、若者の就労支援など)や「学校現場への提案と要望」など意欲的な提言がなされた。特に、「私はやめてしまったが…」につづいて語られた「教育というものに嫌気が差したわけでもないし、子どもたちが嫌いになったわけでもありません」という発言や先の「提案や要望」=「いろんな職場の教員(人びと)が集まって、気軽に話ができる場(この「学びをつくる会」や「学びのWA」など)をもっと広めていきましょう」とか、(このような場から)「おかしいものはおかしいという集団=新たな『モノ言う集団』を作っていきましょう!!」には、多い励まされる思いがしたのと同時に、今後もこの分科会で引き続き考えてゆくべき課題であるように感じた。
 最後に、コメンテーターの大日向さんからは、三人のレポートを通してみえてきた教師の現状の苦しさをふまえた上で、今、教師という仕事には、「生き残ること」と「抗うこと」が同時に求められているのではないか、そのためにも、まずは「語る」ことの大切さが、そして、このような語る場の大切さが確認される必要があるという指摘がなされた。全体として、三人のレポートと盛りだくさんで、参加者それぞれの声=語りが十分聞けなかった点は残念だが、引き続き考えるべき課題が多かった点で、今後の収穫に期待したい。 (文責・宮城 哲)

 

 

第3分科会 社会と子ども 
~新たな時代をつくる市民を育てる~
 

報告者 和光鶴川小学校 下鳥 孝さん
「私たちに託された『沖縄』をしっかり学び、受けとめた」
参加者は、和光鶴川小学校の卒業生で現在都留文科大学の学生をはじめ若い世代の方たちから熟年世代まで15名ほどでした。6月23日という日に「沖縄」に学ぶ子どもたちのことを報告いただいたのはとても感慨深かったです。
2006年という年は和光学園の総合学習「沖縄」が、20年目を迎えた節目の年であった。大月書店から「沖縄に学ぶ子どもたち」という本も出版された。その中に書かれていることなども簡単に紹介しながら、子どもたちから借りてこられた「学習ノート」の実物も見せていただいた。そのノートからは、子どもが学ぶ主体になっていることが伝わってきた。人との出会いを通して深く心を揺さぶられていることがわかる。そして、6年生の1年間をかけた学びを通して自分が伝えたいことを5年生に、自分の言葉で、こんなことを学んで欲しいのだと平和学習メッセージを送るそのことの持つ意味の大きさに打たれた。
行田先生が、「学ぶことは単なる個人的な営みでなく、社会的な営みである。」と言われていますが、そのことが本当にそうだと実感できる報告でした。
丁寧な報告の後、討論をしました。参加者の方の感想を持ってまとめとします。
沖縄の学習について語り合いましたが、とてもためになる話し合いでした。総合的な学習の時間の基本は学びの原点であることをつくづくと感じました。忙しいのですが、何とか時間をつくってまた参加したいと思います。
                        (文責 荻野佳津子)

 

 

第4分科会 子ども理解 
~子ども・親と心をつなぐ教室づくり~

  コメンテイター・片岡洋子さん(千葉大学)、司会・霜村三二さん(埼玉・小学校)
  参加者24名(学生5名、教員14名、その他5名)
 ミニ報告をしてくれた遠藤さんと清水さんは、どちらも初任が障害児学級で、今年初めて通常学級の担任、しかも1年生という学年まで同じ先生でした。保護者との関わりの中で不安になってしまうという報告に対して、ベテランの先生方からは「若さは何よりの魅力。ベテランと同じようにやろうとするのではなく、まず自分の思いを保護者にもしっかり伝えてみては。」などのアドバイスが寄せられました。また大変な毎日の中でも、子どもたちの成長を認めていこうとするお二人に、子どもを見ている今の「まなざし」や「センス」を大切にしてほしいと、という励ましの声もありました。
 鈴木先生の報告では、場面緘黙の女の子が授業の中で友だちや先生と関わり、大きな声で発表できるようになったプロセスがていねいに語られました。手書きの学級通信には、子どもたちの発表した意見がたくさん綴られ、授業中の活発なやりとりが見事に再現されていました。また、一人ひとりのつぶやきをしっかり聞き取ってすべての子どもの声を授業に参加させようとする鈴木先生の思いとそれを可能にする熟達した板書技術についての意見が多くあがりました。コメンテイターの片岡先生からは「話し合いは互いの違いを了解しあう基本的な手段。話し合いが面白いという授業を積み重ねていくことで、話し合いで問題を解決できるという民主主義の基本がつくられていく」というコメントが寄せられました。子どもを理解するためには、まず授業の中で聞きあう関係ができていること、そのためにまず教師自身が子どもの声にていねいに耳を傾けることが大切なんだと再認識させられました。     (文責・石井広昭)