第20回集会


学びをつくる会、第20回集会の全体講演は、朝日新聞の編集委員で教育問題を中心に取材し、全国各地の学校をまわり、その実情を新聞記者の目からするどく指摘している氏岡真弓さんです。以下、講演要旨です。

                   

講演
いま、先生は
~過酷な、しかし人を惹きつけてやまない仕事~
氏岡真弓さん(朝日新聞編集委員)

 

 

 

 いつもは人の話をうかがう側ですが、今日は話すという反対の立場で緊張しています。

 サブタイトルの「過酷な、しかし人を惹きつけてやまない仕事」というのは、昨年出版された「いま、先生は」の本の“売り”の言葉です。「早期退職を選ぶベテラン、力尽きて過労死する者、心を病む者、病から復帰する者、迷い苦しみながら仕事を覚えていく新人たち・・・。教師という過酷な、しかし人を惹きつけてやまない仕事の(現在)をあぶりだす」。これは岩波書店の編集者・田中朋子さんが書いてくださいました。「過酷な」「人を惹きつけてやまない」。この二つの言葉はあやうい均衡を保っていて、二つの間を多くの先生方が振り子のように行ったり来たりなさっていると感じます。

 

1.教育=教師を取材して

 私は、大学で教育学を学んだわけではありません。日本の朝鮮侵略の歴史の卒論をかき、新聞記者になりました。水戸、横浜支局では警察、選挙なども担当しました。88年のソウル・オリンピックや戦後50年の企画、オウム真理教の取材もしました。それを終えてから96年に社会部の教育担当になりました。

 まず98年、学級崩壊の連載をしました。04年に「若手先生物語」を連載し、06年には「非常勤先生」として非常勤講師の悩みと喜びを、07年には「ニッポン人脈記」で教師の原点を描きました。10年には「いま、先生は」をチームで連載し教師の過酷さを伝え、非正規の広がりを文部科学省のデータで分析しました。昨年は、先生が産休に入っても臨時の先生が来ず穴があいてしまう「先生、欠員がうまらない」を調査報道。日教組の調査をもとにベテランの先生の意欲がなくなっていく問題もとりあげました。

 

2.教師=教育改革の行方

 この15年の教育改革はまさに教師改革でした。ひとつのはじまりは97年の東京都の「指導力不足教員」の認定制度です。00年には教員人事考課制度がはじまり、全国に広がっていきます。安倍内閣がこれを加速させ、免許更新制を始めます。正規の先生が皆非正規になったようなものです。民主党になってもこれが変わらず、教員養成を6年にしようという案まででました。今は4年+αということになっており中教審で審議していますが、ねじれ国会で民主党が多数にありませんから、むずかしくなっています。

 教育改革で教師が改革の主体ではなく、対象になっているのです。問題点を探し、チェックするというものです。教員給与は1/2が国庫負担でしたが、この時期、1/3になるなど教師を巡る条件整備がすすまなかった逆風が吹いていた時代です。教組が分裂し、構成員が減少し、民間教育サークルも衰退しています。その背景には、人々の公立学校批判がありました。

 70年代後半は子どもの問題行動が問題になり、学校の窮屈さが指摘されていました。校門を閉めて子どもを死なせたり、いじめの問題がおこっても否定したりで、学校の非人間性、融通のなさ、窮屈さなどが問題になったのです。

 

3.学級崩壊のなかで

 98年当時、学校を取材してまわり、つきあたったのが学級崩壊でした。当初は新しい荒れが小学校に降りてきているとだけ思っていましたが、事態はもっと複雑でした。

 北日本の37歳の先生が、学級が崩壊していく過程をメモに残していました。「とんでもない学年」といわれた小学校3年生、1日100件のトラブルが発生していました。子ども通しのつかみあいのケンカは日常茶飯事、先生に言って解決しようとするので、「先生、先生!」となります。先生がどう対処しようとしたかというと、一つひとつルールをつくったのです。クラスの民主化です。

 しかし、二学期にルール破りの転校生の女子がきて、無政府状態になります。子どもたちのなかにうっぷんが少しずつたまっていて、転校生をきっかけにあふれ出るのです。先生は教頭先生に相談しますが、頑張ってくれと言われるばかり。対教師暴力もはじまります。先生は「指折り数えて春を待つ」状態です。最後の学級通信には「これでペンをおきます。午前4時半」とありました。

 私が取材したのは崩壊から二年後ですが、先生の傷は癒えていませんでした。取材しているとどんどん早口になってくるのです。取材していてもっとも印象的だった言葉は、「無条件で教師が信頼された時代は終わりました」という言葉でした。

 先生がそこにいるだけで信頼されていた黄金時代---一人の教師が多くの子に一斉に知識を教え込むシステムが音をたてて崩れ、「良い学校にいけば良い企業に入れる」という学歴神話が崩れていったころでした。

 崩壊学級の教師は指導力不足教師とされます。学級王国なので援軍もきません。もちろんすべてではありませんが、ビシっとさせる、教え込む、というベテラン教師が多かったように思います。ほとんどの方は取材を許してくださいませんでした。取材に応じていただいた方も通勤とは違う路線を指定されます。土曜の午後1時に会い、閉店まで一人で語り続けた方もいました。教師の同僚性といいますが、同僚性があれば、見ず知らずの新聞記者に半日一人語りするなどありません。孤立しているのではないでしょうか。

 

4.教師の世界の構造変化①~若手教員の増加

 教師改革が進む中、二つの大きな構造変化が起きていました。

 その一つが、若手の増加です。

 教師の年齢構成ピラミッドはいま、「ワイングラス型」となっています。50歳台がふくらみ、その下はくびれ、20代が増えてきています。少し前までは、下がない「コマ」の形でした。いま、大都市圏から若手教員の採用が増えてきているので、形が変わってきています。50歳台のベテラン教師が若い時とは状況が違います。

 大学を出て横浜の小学校になったタロウ先生(仮)は3年生の担任になります。「忙殺」と言っていました。忙しくて殺されそうだと言うのです。最初は何をしていいかわかりません。「アノ・・」ときくこともできません。皆忙しそうにしています。4月からの数週間、子どもの名前を書いて札をフックにかけます。時間割表をつくります。清掃分担表もつくります。避難時の子どもひきとりカードをバウチします。代理人用のカードもつくります。学級経営案、児童カード、個人情報の承諾書などもつくります。学校は紙の世界では、と思いました。教師は授業する人だと思っていたけれど、事務処理をする人でした。この学校は運動会が春にあり、準備にあけくれます。運動会がおわると、水泳の準備です。プールの塩素管理もまかされます。夏休みは学習教室があり、研修の出張もありました。指導要録の記入もあり、夏休みもほとんどありませんでした。あとまわしになるのは授業準備です。

 朝7時に出勤し、8時には子どもがきます。2時に子どもが帰り、そのあと校務です。夜の9時10時に帰宅し、帰りにコンビニに寄って下宿に帰ってパタッと倒れる。土日も地域連携といって地域の行事にもでなければなりません。教組はあるが、職員室で労働条件について話し合われることはありませんでした。

 次の年、体育主任になります。ベテランはいても中堅がいないので、若手が務めます。前年度の引き継ぎもありません。

 タロウ先生は「教師には真面目な人が多い」と言います。他の人も忙しいんだから、と言うのです。これではこわれると思い、異動希望を出しました。4年目に別の学校に異動しました。「初任校は修行だった、あれ以上苦しいことはもうない」と先生は思っています。「今後どんなことがあっても楽しいと思える」とも。

 ベテランと若手の間には断層があります。ベテランは自分が初任の時の感覚でアドバイスします。そのころは学級に自由がありました。保護者と飲んだり、サークル活動で勉強したりできました。今そんな時間がどこにあるのでしょうか。

 少子化でひとつの学校にいる教師の数が少なくなっています。若い人に負担がいきます。多くの若い教師は「教員評価は良い」といいます。「がんばりを評価してくれる」というのです。「団結頑張ろう!というのは若い教師には合いません。日教組というのは宗教団体だと思っている若い教師がいました。「教祖」と思っているのです。

 若い教師は、自分のしんどさをわかってほしい、と思っています。静岡の新任教師の木村百合子さんが自死した事件で公災認定の裁判がおこなわれています。学校の教師たちは悪意だったわけではないと思います。学校側は彼女を支援したと言うのですが、どこまで彼女の立場に立ったかどうか。裁判の傍聴に行って驚きました。教頭先生とリーダーの先生の訊問でしたが、木村さんは克明なメモを取っていました。そのメモを管理職はまったく見ていなかったのです。裁判で弁護士が送った資料も封もきらなかったというのです。12月に判決がでましたが、「学校はもっとも弱い新採用の教師の立場に立って支援しなければならない」ということで地方公務員災害補償基金の公災非認定を取り消しました。画期的な判決です。しかし、基金は1228日、控訴しました。

 弱い若手の立場にたてない学校が、どうやって子どもの立場にたてるでしょうか。弱い人にどう寄り添うかです。

 

5.新しいつながり

 そんな状況でも若い人たちの新しい繋がりができてきています。この会の「学びのWA」もそうです。

 滋賀の「(仮)センセの放課後」という集まりを取材しました。土曜日の午前、30歳台の先生の家にボツボツメンバーが集まってきます。まったり、ゆったいが持ち味。「そうか、僕もそうやなぁ」という感じです。そこには共感があるのです。

 「子どもが気に入らない時『エー、ナンデ』と言う」とひとりの先生がこぼします。すると、緩やかな質問が投げられるのです。「誰にでもか」

 先生ははっと気づきます。「子どもを抑えようとする教師にはもっとそうや。とすると、子どもは僕の気持ちを読んでいるのかもしれない」

 なぜ土曜の午前なのか、と聞くと、一番自由になる時間で、次の週につなげられる、と言います。職場では放課後がなく、このような話し合いはできない、といいます。忙しく過ぎるからです。

 ただ、立ち止まって考えたいと思います。ベテラン、若手、双方の話を聞くと、その悩みは似ているのです。職員室が多忙、親、子どもの対応の問題、など共通して感じています。それなのに、お互いに言えないのです。時間の余裕がありません。

 「時間がないから、どうせ無理」ではなく、少しでも場をつくっていく若い人の取り組みに期待したいと思います。

 教育委員会に教員採用の倍率が3割を切るとヤバイと言います。質が担保できないというのです。しかし、門戸が広がったおかげでかつてより、幅広い先生が集まってきます。いろいろなコースから教師になった人がそろっており、先生まっしぐらではありません。ここからどんな新しい学校文化が生まれるか、楽しみです。

 

6.教師の世界の構造変化②~非正規教員の増加

 構造変化のもうひとつは、非正規教員の増加です。

 非正規教員にはふたつの型があります。ひとつはフルタイムで一年とか半年働く常勤講師です。もうひとつはパートタイムで働く非常勤講師です。

 文部科学省の統計でも7人に1人が非正規です。この統計には隘路があります。教員の補助員としてチームティーチングの補助している人などは教員とカウントされないのです。教室の非正規化がどんどんすすんでいます。

 非正規教員が増えているのはなぜか。採用する自治体の財政難です。しかし、保護者の少人数指導へのニーズの高まりから、安い人件費で頭数をそろえようとします。より効率化を図る行政の論理です。若手の教師が増え、女性の教師が増えると産休の先生も増え、そのかわりの非正規の先生も求められます。それだけではありません。自治体の思惑はほかにあります。今後、子どもの数が減るので、調整弁の役割を担ってもらおうというのです。自治体だけではありません。国も少人数学級をつくりやすくするなど制度を変え、補助金の対象に正規だけでなく非常勤講師も加えたりしています。公務員の定数削減で、正規教員を思ったように増やせなかった事情もあります。ある教委の担当者は言いました。「自由になったが、その自由は教員を減らす自由でしかなかった」と。学校現場はかえって忙しくなっています、正規教員が増えていないからです。一人で校務を三役も四役もしています。非常勤が増えると打ち合わせも廊下を歩きながらというのが現実です。

 イサオ先生(仮)は「多忙化と言っているのは正規教員。それを支えているのは非常勤講師。学校に不利なことを言うと次の年雇ってもらえるかどうかわからない」と言います。郷里は東北ですが、新規採用の増加が波及していません。関東地方の県の講師名簿に登録しています。

 非常勤講師だと、週20時間で20万円ほどにしかなりません。生きるゆとりがありません。塾のバイトもしています。「正規の先生は忙しいというのはわかるが、ギリギリやっているわけではない。正規の先生は身分保障がある、僕らは控え選手。正規の苦しさばかり書いてある『今、先生は』の連載を読んでカーッとなった」と言うのです。

 非正規といっても部活や文化祭の準備も担っています。指導者用の赤本が学校にしかなく、授業準備も学校でしかできません。その分は給料にはなりません。学校全体のことがわかっていないといけないから職員会議にも出させて貰っています。しかし、非正規だということで口ごもってしまいます」とも言います。

 そんなにまでして教師をやろうと思うのは子どもがかわいいからです。授業が終わって、わからない子を職員室に呼び、教えます。初任の先生には負けたくないと思います。生徒の恋愛や家庭の問題も相談を受けると、うれしくなります。「働くのはもらえる給料分だけでいいか」と思うこともあるのですが、でも子どもの前に立つと採用試験の事は忘れてしまいます。平日には試験の準備はできません。

 そんなイサオ先生の家の部屋を見せてもらいました。本棚には、採用試験の本とならんで、専門の数学の本、そして教育雑誌がズラッと並んでいます。「僕は教師なんだ」というプライドがあります。

 正規の先生と非正規の先生の間にも、若手とベテランと同様に、やはり断層があります。しかし、非正規の先生も子どもの前では同じ教師です。どうスクラムを組むかが課題です。

 

7.いま、先生は

 教師の勤務状況の調査では、中学校の場合、学校にいる時間が80年には9時間59分でした。91年には10時間40分、97年には10時間58分、07年は11時間48分です。

 睡眠時間は7時間08分から5時間57分になっています。本を読む時間は1時間32分から1時間17分に、テレビを見る時間は1時間59分から1時間49分になっています。生活にゆとりのない先生は、子どもの目にどう映るのでしょう。

 2006年の文部科学省の統計では中学の部活動は平日2時間半から3時間となっています。一日当たりの労働時間が最も長く、特にきついのは教頭先生です。

 ある教頭先生はうつ病を発症しました。帰宅する時間があったら横になりたいと校長室のソファで寝て、カップラーメンを食べていましたが、ある時、起き上がれなくなったと言います。娘さんから「お父さん、もういいんじゃない」と言われ、降格しました。

 この調査では教師の意識も聞いています。「仕事に追われる」というのが77%、しかし「やりがいがある」というのも81%あります。

 病休の先生が増えています。97年には4470人だったものが08年には8578人になっています。倍増です。心を病む教師が00年には2千人だったのが、08年には3倍近くになっています。文科省も事態を重く見て、教員のメンタルヘルスの会議を設けて議論を始めました。  

 早期退職の教員も多いのです。文科省も調べていますが、この統計は役に立ちません。勧奨退職もはいっているからです。09年には1万2千人です。05年から09までで6万人以上です。

 この過酷さのなかで、公立の教師の9割がやりがいがある、と答えています。一般企業には見られない数字といえるでしょう。

 同僚の記者が取材した過労死の先生のメモを読み、涙が出ました。大阪の中学の吹奏楽の教師です。子どもが待っている、ということで、体調が悪いのを押してコンクールにも参加し、金賞をとります。しかし、その記念撮影には彼はいません。楽屋で倒れ、3日後に亡くなりました。葬儀には3千人が集まりました。教え子はバンドをつくり、演奏会を開きます。奥さんは思うのです。「主人がどんなに慕われているかわかった。でも、思うのです、なんで彼がいないのか」って。過酷で人を惹きつけてやまない教師の仕事のある面をつきつけられた気がしました。

 

8.どうしたらいいか

  では、どうしたらいいのか。まずは、先生の増員です。小学校1年生、そして2年生で35人学級となりますが、しかし、教師が増えれば事態が改善するかについて、私は懐疑的です。不登校はこの17年間で小学校で1.9倍、中学校で2,2倍になっています。暴力事件は小学校で1,8倍、中学校で1,4倍になっています。要保護の過程も増加しています。学校現場がかかえる問題の状況、保護者の状況も複雑になっています。学校の役割が「偏差値を上げる」から「社会のセーフティネットを張る」ことも含んできています。教師一人ひとりがかかえこみすぎです。先生がチームになって仕事をこなせるかが大事です。

 そんななか、社会の教師を見る目も少しずつ変わってきています。連載の反響は「教師はめぐまれている。フザケルナ」というものばかりではないかと思ったのですが、自分のサラリーマンとしてのつらさと重ね合わせたものが目立ちました。この流れを生かして、実態をきちんと調査すべきです。教育改革の当否を考える出発点にもなるのではないでしょうか。

 

9.おわりに

 震災の日、多くの人が向かったのが学校でした。そこに行けばなんとかなる、と思ったのでしょう。教師が住民と近かったということです。「役所の人はどう住民に語りかけていいかわからなかった」と言います。行政は上から目線だったというのです。非常時にわかる教師のあり方です。

 ある中学校は職員会議をなくしました。校務も簡略化しました。間借り先には校長室がありません。先生と同じ部屋におり、ああでもない、こうでもない、と議論が生まれます。ある校長は語っています。「自分の子どもが生きていてくれればいい、学校に来なくても生きていてくれればいい。それがわかったことが教師人生のハイライトだ」と。あの地震の時、「要録を持ち出そう」とした教師がいたでしょうか。だれもが子どものいのちのことを考えたのです。

 しかし、残念ですが、日常が戻りつつあります。再生とは以前の学校に戻ることではありません。震災に負けない学力とは、学びとは何かを問いかえすことが欠かせません。 

 先生たちは子どものトラウマになるから、とあまり作文を書かせてきませんでした。しかし、11月、12月になって、少しずつ、そうした実践が広がっています。宮城県の亘理町、福島県の南相馬の学校を取材して、作文の授業をみました。あの日と向き合う試みです。それを記事にしたところ、反響がありました。その先生のかつての教え子たちです。「涙が出た」「先生が元気でよかった」などというものでした。卒業して30年たっても手紙を送ってくるのです。その場だけを評価する教員評価では見えてこない世界だと感じました。

 人を惹きつけてやまない仕事---これからも教師の仕事を追いかけたいと思います。皆さんのところにも取材にうかがいますので、よろしくお願いします。

 

 


午後はふたつのレポートを学び合いました

午後は、会場の関係で「学習・授業」と「子ども理解」のふたつのレポートを続けて学びました。


第1レポート 学力・授業 

「いま、子どもたちと学び合う楽しさを」
泉宜宏先生
 
 

 教師歴三十年を超える泉先生。これまでの経験を振り返りながら授業作りについて報告してくれました。

 若いころに描いていた夢を三十年かけて実現している様子を、生き生きと話す姿が印象的でした。

 レポートでは「人間の歴史の授業を創る会」や障害児学級の参観など様々な場で勉強し、子どもの興味に合った学習作りに取り組んできたこと。小麦を育てたり、野焼きで縄文土器作りに挑戦したりしたことなど、生活科や総合的な学習の時間での取り組みを中心に紹介していただきました。

 子どもの真剣な目、姿を見てあげることの大切さを強調されていた泉先生。ワクワクするようなものづくりを子どもと一緒に楽しむ姿勢が、授業をより豊かにする要素となることをお話しいただきました。

 コメンテーターの岩辺先生からは、困難を数え合うことではなく何をやりたいか、何がやれるかを語り合うことの大切さ、新人、ベテランが世代の壁を低くし、よく話し合う

ことの大切さをお話ししていただきました。      (文責・坂井 ゆりか)

 

 

 

 

 


第2分科会 こども理解 
 

「小さな”表現者たち”が私にくれるもの」
石井広昭先生

 

2人目のレポーターは、石井広昭さん。教師14年目にして初の2年生担任として日々奮闘する様子が、素直に、丁寧に語られた。

始業式の担任発表、体育館にどよめきが起こる。2年生の子どもには不安のあまり半泣き状態の子どもまでいた。子ども達には石井さんが「高学年の、怒るとこわい先生」というイメージがあったのだ。「楽しいことをすれば、子どもはついてくるはず」と授業に励んだが、夏休みの一週間前に校長先生から尋ねられた。「教室でどういう顔をして授業をしている?仕切り直しをしないとだね。」クラスの保護者から電話が入ったのだ。ほかにも夏休みを前に、心配事は重なっていく。

石井さんは悩みつつも、自分自身を振り返った。「いつまでダラダラやっているの!」とつい高学年に見せていた顔が出たことも反省した。そして以前大学の先生から学んだ3つの「きく」(①聞、②聴、③訊)を大切にしていくことがいい方向への糸口になると考えた。

石井さんの変化はクラスの「ちょっと気になる子どもたち」への対応にも現れた。友だちになじめない子どもには、その子どもの「良さ」をクラス全体で認め、「やるときはやる男」というキャッチコピーをつけたり、またある子どもには転入生の「お世話係」として前向きな気持ちにさせたり。

ある時、急に廊下で家族を思い出し「寂しい、お仕事に行かないでほしい。」と泣き出した子どもの姿を見て「ちっちゃい子ども達は、いつもキラキラしていて、学校って楽しいと言って登校してくるイメージがあった。でも、実際はちがった。」と語る。最後に「3年生になるまでに、あの子おもしろいね、あの子素敵だね、と子ども達が言い合えるようにしてあげたい。」と話した。

報告後は石井さんの良さと、「良い語り手とはどういう人か」という点を質問や感想を交えながら参加者で語り合った。コメンテーターの山﨑隆夫さんは「身を裂かれるような現代において、石井さんは聴く側の人でいる。子どもが実はいろいろと抱えている困難をつかみはじめている。本当の意味での言語活動を通し、内側から子どもが叫び出すことばを、石井さんは聴きとっている。」とコメントされた。(文責:山口貴子)