第4回集会


子どもとつくるこれからの学びと学校
          
 汐見 稔幸(東京大学)

 私は、教育というのを狭い世界で考えるのをやめようとしました。はじめ現場の先
生方と「学校をどうかえようか」ということを議論していました。教師ががんばろう
としていることを共有できないと研究者ではないと思っていました。同時に教育の現
場というのは、今アジアの子どもたちはどうなっているのか、世界は日本をどうみて
いるのかなどということとはかかわりなく行われています。ひょっとしたら私たちは
バカなことをしているのではないかと思いました。一生懸命になればなるほど、こう
いうことがみえなくなります。目の前の子どもたちがたいへんですから。そこで80
年代に管理がきびしくなったころ、自分の仕事ではないのではないか、とちょっとひ
いたことがあります。そんな時、現場の小学校低学年の先生から「小学校にはいった
時から学力差がある。それが学校で平準化されたり、克服されたりすることは簡単で
はない」と深刻に話されていたことがショックでした。
 子どもたちの学力といっても学校だけで身につくものではありません。家庭や地域
の中でいろいろ培ってきたものをベースに学力が育てられています。階層・階級問題
が露骨にあらわれています。岸本さんや藤原さんの「生活点検」などのとりくみを善
意でやろうとすることはわかりますが、そういう提起をすればするほど、そういうこ
とがきちっとできる家庭とできない家庭との間にどれだけ較差が広がっていくかとい
うことに自覚があるかという点で藤原さんを批判したことがあります。
 そこから、学校を直接論ずることから少ししりぞいて、幼児教育にはいりました。
私は今の教育のあり方、人間形成のあり方は大きく変わらなければならないと思っ
ています。そんなことからはじめたいと思います。

 

 
   
1.これからの教育の課題は何か


1)人間形成論の全体性を視野に
 

 全体をみるということはむずかしい。一人の子どもがその時に体験することは一生の中でどんな意味があるのか、一人の子どものうしろに家族がみえ、歴史がみえ、地域がみえ、社会がみえます。私たちは子どもの中に情勢をみる、とか子どもの中に社会をみる、などと言ってきました。子どもを日本のあるいは世界の状況とリンクさせて、全体性を見失わないためです。人間が学校時代を含めて、全体としてどう育っていくのかということを視野においた場合に、これからの教育は共通に三つの課題を背負っているのではないかと思っています。
 
  ①対人関係能力の丹念な育て

20世紀のおわりごろからはっきりしてきましたが、21世紀の人間形成の課題と
して対人関係能力の豊かな育ちというのが、柱としてドーンとすわらなければうまく
いかくなるという予感がしています。この20年間ぐらい、それまで広まっていな
かったことばがあり、今やそれぬきには語れないものがあります。いじめ、不登校、
引きこもり、虐待、DV、自殺、離婚などがそれです。
 「いじめ」というのも、いじめる、という動詞はありましたが、名詞としての「い
じめ」としては使いませんでした。「引きこもる」という動詞はありましたが、「引
きこもり」という名詞はさいきんのことです。虐待という言葉はありましたが、親が
子どもを激しくせっかんして殺してしまうなどということはさいきんのことです。
こんなことが日本におこるなどということは20年前には予測しなかったことてす。
 「いじめ」は減ったという報告はありませんし、形を替えて蔓延しています。不登
校の子どもたちも統計をとりはじめて、毎年増え続けています。不登校はずっと議論
してきたのにずっと増え続けています。中学生だけでもう10万人を突破していま
す。さいきん増加しているのは「引きこもり」です。定義としては「特別病的な理由
がないのに、半年以上家からでなくなって、社会との関係を断ってしまった」という
ことになります。本来、社会にでて勉強するなり、働くなり、バリバリがんばらなけ
ればならない世代の人間があることをきっかけに挫折したり、エネルギーが枯渇して
しまって社会にでられなくなるという状態です。自分に対する自己否定的な感情がつ
よくなって、悪循環になってしまうのです。気が付いたら、3年も4年も家からでて
いない、出るのは夜コンビニに買い物にでる時だけ、もっと極端になると5年も自分
の部屋からでてこない、でるのはトイレに行く時だけ、というのもでてきます。こう
いう状態の若者や子どもが日本の中でかなり増えてきています。埼玉県の岩槻で「ひ
きこもりをかかえる親の会」ができて、全国によびかけて40近い会ができていま
す。そういう会で努力しています。この会の調査では全国に最低限80万人、多く見
積もると150万人になるといわれています。100万人単位の数であることはまち
がいなといわれています。私は東京都の青少年問題協議会の委員をやっています。
テーマはひたすら「ひきこもり」のことです。そのなかの事例では、40何歳の人の
例があります。ひきこもりはじめたのは高校生の時ですから、もう20年以上社会と
の関係を絶っています。このために顔を使うことがありません。表情を使うことがあ
りません。しゃべったり、笑ったりしているから筋肉が動くのです。それがなくなっ
たら、本当に能面のようになってしまいます。同時にこの人はもう一生社会にでるこ
とはないかもしれません。人生のうち10何年だけ社会にでて、あとはずっと社会と
の関係をつくらないで死んでいくという人たちがこれから大量に出てくると思いま
す。こういうことが21世紀の日本のかかえている困難な典型的な問題ではないか。
社会にひきもどそうとしても仕方がありません。彼らは彼らなりにコミュニケーショ
ンの仕方を求めています。
 こういう人たちがでてくるという私たちの社会の文明のあり様、教育のあり様が問
題です。参考のためにいうと、欧米の人たちにはこのことが理解できません。「長
年、家にいるなどということは概念にない」というのです。「働かないものをどうし
て追い出さないのか」というのです。日本はそういうことはしません。面倒をみてし
まいます。欧米の人は「なぜそんなバカなことをするのか」といいます。欧米ではひ
きこもりの報告はありません。非常に日本的な現象です。ヨーロッパではこういう若
者は追い出します。そして浮浪者になるのです。日本では浮浪者を家庭で囲っている
という感じかもしれません。さいきん別の国で報告がでてきています。それは韓国で
す。韓国では日本と似たような教育の事情をかかえています。韓国ではこういう若者
をカンガルーと呼んでいるそうです。親のふところにいる、という意味でしょう。な
ぜこういう若者がうまれるのか、という私たちの国の教育文化を考えたいと思いま
す。
 
 
       
 

次に虐待の問題です。さいきん児童相談所で虐待の事例が増えてきて「このままで
は殺されてしまう」という深刻な事例が増えてきて、どう対処していいかわからない
というのです。事例が少なかったのです。今から10年少し前の1991年に全国の
児童相談所が、児相にあがってきた例の中で「このままでは親権を剥奪した方がい
い」という虐待の例は1010件でした。その後統計をとりはじめて、今では何万件
という数になっています。アメリカでは1950年代から虐待の報告がありました。
家で親から虐待され、青年がおかしくなっていく例があるということでたいへん
ショックでした。実際はそんな単純なものではありません。この子どもたちが70年
代になって親になります。親になるとまた子どもに同じことをしてしまう確率が非常
に高いのです。今この親に育てられた子どもがいます。三世代目になっています。今
アメリカでは年間6千人の子どもが虐待で殺されています。アメリカのこうした状況
の最大の原因は“競争”だと思います。競争に脅迫された人間たちが子どもをそれに
のせようとしたり、子どもが「自分は自分でいいんだ」とか「ゆったりしたペースで
いきたい」となかなか思えなくて、どんどん自己評価を下げていってしまう。競争競
争といっている社会でこういう現象が多いのは示唆的だと思います。
 それからDV・ドメステックバイオレンス・家庭内暴力です。日本でこの言葉がは
いってきた最初は不登校の子どもが家庭内でもっとも弱い存在である母親に暴力をふ
るうということでした。自分が抑圧されて苦しくて仕方がない、そのストレスとかイ
ライラを自分の親にむけるというものでした。しかしアメリカではそうではなくて夫
婦関係の中でカッときた夫が妻に対して激しい暴力を振るう、とか恋人でうまくいか
なくなったら、ストーカーもどきで激しい暴力を振るうなどの例をさしていました。
日本とは違う、といっていたのですが、実はそうではありませんでした。現在日本で
は夫婦間のDVが圧倒的に多くなっています。これまでは隠れていたのかもしれませ
ん。今はこういうことは人権の侵害であるということで法的にも罰せられる行為だと
いうことになって名乗りでる人が多くなっています。総理府の調査があります。「あ
なたは自分の夫に暴力をうけてこのままでは殺されてしまうかもしれない、と思った
ことが一回でもありますか」という質問に「ある」と答えた人が5%でした。日本で
結婚している女性は4千万人ですから、だいたい200万人もの女性がこういう体験
をしています。一回でもDVをうけたかという調査では30数%になっています。
 それから「自殺」の問題です。昨年横浜で自殺の国際学会がありました。自殺者の
数を人口でわってみたのです。自殺率です。日本が世界で一番多かったのです。自殺
率のトップは日本です。21世紀になって自殺者が3万人を下回ったことがありませ
ん。その70~80%は40代・50代の男性です。交通事故をキャンペーンをはっ
て1万人を8千人に減らしたと自慢しています。自殺者はこれを大幅に上回っていま
す。リストラにあい、ローンをかかえておいつめられていくということですが、この
自殺者が減らないという状況です。
 離婚の件数は、毎年30万件です。結婚は80万件です。離婚の割合が増えていま
す。結婚の割合は増えていません。そのうち離婚が40万人になると結婚した者のう
ち半分
近くが離婚するということになります。離婚するかどうかは自由ですからいいのです
が、子どもが小さい時に親が離婚するということは子どもにいいしれぬ心の負担とか
傷を背負わせてしまいます。結婚したら上手に夫婦の関係をつくり、家族の関係をつ
くり、離婚したとしても子どもに負担をかけない配慮がおとなに必要だと思います。
離婚が増えるということは家族問題が深刻になる確率が高くなるということです。
 ここまでイジメ・虐待・DV・自殺・離婚などの社会現象をみてきました。その原
因を考えると共通した問題につきあたります。それは対人関係能力です。いじめとい
うのは対人関係の病理です。自分のイライラを弱い者に攻撃性としてでてきてしまい
ます。不登校とかひきこもりはいろいろ原因がありますが、社会にでていろいろな人
とであって失敗もする、はじもかくかもしれない、でもアハハと笑って大丈夫大丈夫
といろいろな人とであって、出会うことが楽しい、そこで自分が評価されることが楽
しい、つまりいろいろな人と出会うことが不安ではないという精神のたくましさがな
いと社会にはでられないのです。でも何かのきっかけで、自分はどう見られているの
かなどということが過剰に気になってしまったり、いろいろな人と出会うことに不安
を感じるようになるなど対人関係不安というのが共通にでてきます。虐待は親が子ど
もに接する接し方が間違っているのです。英語ではチャイルドアビューズ(子どもを
間違って扱う)といいます。虐待という強いニュアンスはありません。自殺は男性に
多い。7~8割は男性です。男は弱音をはいちゃいかんという感じがあって、弱い部
分をさらけだすことがなかなかできない、ということがあります。男の方がこの社会
では不自由かもしれません。女の人の方が強いです。対人関係で自分の弱さを平気で
だせるということが訓練されていないのです。価値観が違う人が上手に関係をつくれ
なければなりません。昔は女ががまんしました。今はそんなことはありません。一緒
に生活したら、お互いが話し合って合意しなければなりません。合意をつくる訓練を
していかなければなりません。
ついでにいえば、21世紀は「共感する能力を育てる」ということがテーマになる
と思います。ルソーがエミールという本の中で強調してでてくる言葉はフランス語で
「ピチェ」という言葉です。英語でいうとピティです。岩波文庫ではへんな訳がつい
ていて「憐憫の情」と訳しています。ルソーはエミールという本をなぜ書いたかとい
うと社会契約論とセットで書いたのです。社会契約論は王様や貴族が支配する社会は
おかしい、普通の民衆が主人公になる社会はつくれないのか、と考えました。そこで
出てきたのが社会契約という考え方です。普通の人民がこの人に統治してほしい、と
契約するわけです。契約を破ったらやめてもらうということです。そういう統治形態
を考えました。画期的なことです。これが民主主義の源流になります。それをフラン
ス革命の民衆はルソーのスローガンを実際にうつそうとして革命をおこしました。フ
ランス革命のスローガンは自由と平等ともうひとつ友愛というのがあります。私たち
は自由とか平等というのは研究して深められてきました。しかし、もうひとつ三角形
の頂点にたつ友愛ということについては深められていません。社会をつくる時に一番
ベースになるのは自由でも平等でもなく、友愛なのです。
 ルソーは社会契約によって、だれでも通用する原理で統治してほしいと願います。
それが法です。そのもとになるのは自由でも平等でもなく、友愛です。友愛というの
は、あいつが困っていたら助けてやろう、というこれだけのことです。あいつが喜ん
でいたら、みんなで喜びにいこうよ、ということが人間にとって一番大事なことなの
だ、ということが社会の原理になっていなければなりません。エミールという本は社
会契約をベースとした社会をつくるためにそれを担う人間をつくらなければならず、
どういう能力をもった人間でなければならないか、を書いています。
 そこで最初に強調したのがピチェです。人間というのは上手に育っていくと人が喜
んだことを素直に喜んでいきます。人が悲しくなった時にいっしょに悲しくなる、と
いう感情をもっています。これがピチェなんです。子どもの共感能力です。ピチェと
いうのは日本語にすると「義理人情」に近いと思います。「あいつが困っていたらな
んとかしてやろうぜ」損得ぬきで、一生懸命面倒みてやる、などということです。そ
ういう社会をもっていないとスムーズに動かないのです。ルソーはエミールの中で人
間の何をのばさなければならないか、人間が本来的にもっているピチェという能力を
豊かにのばしていかなければならないと書いています。
 ピチェという感情をアドラーとは「共同体感情」と言っています。いろいろな言い
方をしています。クルプスカヤもそういう言い方をしています。昔、孟子が惻隠の情
といいました。人間の中には本能的にそういう感情があるのです。そういう感情をの
ばさないで、「人のことをよろこんでいるあなたがえらい」といわなくなりました。
「人に勝て」というメッセージを送ってしまっています。共感・共苦する感情と訳し
ていますが、これを豊かにのばしていくためには競争がジャマなのです。人に勝つ人
ができることなんかどうでもいいじゃないですか。人がいっしょにできるようになっ
たことの方がよほど嬉しいという感情があるのです。そこを人生の最初にていねいに
のばしていこうということをしなければなりません。それを消し去ってしまおうとい
う圧力が競争・競争とあおることで「競争こそ活力だ」というのは冗談ではない。な
んで人に勝つことがそんなにうれしいのか、と思います。
 対人関係能力をどう育てていくかということはたいへんむずかしいことです。一人
ひとりが異なるということを前提にして、関係をつくっていくことのおもしろさを豊
かに体験していくこととして教育とか育児にメスをいれなければならないと思いま
す。

 
       
  ③階層較差の拡大に挑む

学力低下の論争がありました。一通りのメドがつきましたが、僕は「学力低下」と
軽々しくいうのはやめてくれ、と言ってきました。いえばいうほど親が不安になりま
す。どういう学力が大事だという議論をしないで、読み書き算の低下だけいうと、そ
こだけが大事だとなって、これまで話した自分がみえる、他者がみえる、そういう基
礎学力を追求しなければならないということはふっとんでしまいます。わかりやすく
いうと古い学力・旧学力はこれまでも大事でした。それが低下してきた、新しい学力
を模索しなければならない、そこのところで混迷がおこっています。そういう人もい
ます。そういう論争の中でいくつかのことがはっきりしてきました。
 ひとつは今、昔に比べて勉学するという意欲を低下させてきています。なんのため
に勉強するのか、という時に「そうだ」というものをしっかり自分で持っていて、家
庭に帰ってもそれなりにしっかり勉強もする、宿題もやる、とか勉学にむかわせる何
かを持っているかというと、どうもそれがはっきりしなくなっています。その理由は
共感ではなくて、勉強することが競争になっていて、それで多少おもしろくやれたと
しても学びというのはいつまでもそんなものか、というとやる気がしなくなってきて
しまいます
もうひとつは、これまで学校で先生に「なぜ勉強するのか」と聞くと「おまえ、高
校に行きたくないのか」と答え、「これなんで覚えなきゃいけないのか」と聞くと
「これは試験にでるんだ」と答えます。それはそうかもいれません。これまで社会が
貧しかった時、豊かな国にしなくちゃ、立派な人間にならなくちゃ、という意識があ
りました。受験もあります。動機づけがはっきりしていました。しかし、今は「豊か
な国にしなきゃ」とか「生産力をあげなくちゃ」などと子どもに言ってもピンとこな
いのです。「偏差値をあげて、大きな企業にはいることが安泰だ」などとは思ってい
ません。一生懸命勉強したからと言って見返りがないのです。また、自分にこだわり
たい、という気持ちもあります。大きな会社にはいったら、自分のやりたいことがや
れないのでは・・・とも思います。だから自分がに何になりたいかという教育をさせ
てもらっているか、というとそうでもない、だから自分探しに苦労しているわけで
す。だけどそのままではやる気がしない、という正直な気持ちなのです。
つまり自分にふさわしい動機付けがあれば、やるよというわけです。それを与えき
れていないということが学力論争の中ででてきていると思います。
 昔は、赤ちゃんは家庭と地域社会と学校が分担して育ってきました。こんな人に
なってみたいな、と発見するのは地域だと思っています。地域の職人さんや大工さん
がかっこいい仕事をしているのをみて、あこがれたり、地域社会の中で何か価値ある
ものをみつけて、夢をはぐくんできました。
 小さい時にいっしょに遊ぶ・冒険する・知恵を働かせる・自分を試す、挑戦するな
どという冒険心、工夫する力、人とつきあう社会性などを地域社会がはぐくんできた
のです。卑弥呼の時代からずっとそうなのです。現代はそこのところがなくなってき
てしまいました。朝から晩まで親がみていなければなりません。だから親が堪えられ
なくなってイライラしてくるのです。また子どもがやることを全部みえますから、す
ぐに評価してしまいます。子どもはおとなの評価に過敏になっています。いい子にな
らなければいけない、と思っています。その中で上手になれる人と、こんなことでき
るか、子育てについてていねいにやることを放棄する人がでてきます。親はそんなに
上手な子育てはやれるわけではないのです。昔だってやっていたわけではありませ
ん。地域社会がいろいろ育んでくれていました。
 こういうことがダイレクトに学校にもちこまれます。小学校にいくまで絵本なんか
読んでもらたことがないという子と、小学校2・3年までの教材をやってきている子
との較差がでてきます。これが学校でその後、平準化されなんてことはないのです。
ますます差が開いたりするわけです。新しい身分社会のはじまりといえます。これを
ぶちこわさないで、何が教育かというわけです。新しい21世紀型の階層社会ができ
あがろうとすることに対して「人間は皆平等」と挑んでいかないと何かむなしくなっ
てしまいます。
 人間の能力や学力を何で評価するかという時に今まではIQがモデルになっていまし
た。計算が早いとか、正確に記憶を再現するなどでした。うまくIQをのばす家庭環境
で育った子どもは得でした。アメリカの心理学者ガードナーは人間の知能というのは
計算が得意とかいうだけでなく、自分が身体で飛び上がった時にどんな姿勢をしてい
るかということを自分でイメージがもてるか、これを身体的知能と呼んでいます。こ
の他にも音楽的知能など全部で知能を8つにわけています。それぞれに優劣はないと
いいます。今までは知能指数的な、計算の力などということばかり言っていると人間
の可能性はすごく閉じこめられてしまいます。芸的な知能が豊かな子はそれをのばし
てやるということで、それを認めていくべきだと言っています。
 「IQからEQへ」という本がでました。EQというのはガードナーの理論に刺激をうけ
て、社会にでて成功している人はかならずしも知能指数が高いとはかぎらないという
ことがわかってきています。対人関係能力が豊かな人、相手がおちこんでいる時に上
手に相手をはげますことができる人、自分が失敗した時に上手に自分をエンパワーで
きる人、これはIQではなくてEQであるといわれています。
 階層間較差をどう読むかということについては、かなり魅力的なテーマがでてくる
と思っています。
 
 

*このあとレジュメでは――――――――

2.学びの動機づけの転換
1)動機付けの二種類・外発的動機付け、内発的動機付け、そのバランス
2)日本の特殊性、受験競争のはげしつとその克服
・学びの動機付け、受験に求めてきた。
 受験がなんだかんだ言っても最大の動機付けだった。
・今は、その関係がゆるんでいて、それだけでは勉学の意義を感じなくなってい
 る者が増えている。
・学ぶことのおもしろさ、楽しさ、深さ、感動、自分がみえてくる喜び、他者と
 共鳴する喜び、他者を発見する喜び・・・等を最大重視する学び、動機付けの
 変化を伴う授業
・世界の授業に学ぶ、・受験が動機付けにならない国が多い。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
と続きますが、時間の関係で割愛されました。
 しかし、ひとつだけいうと、日本は受験という動機付けがありました。いくらいい授業をして
もうしろには受験がありました。それを前提としないような学びをつくりださなければなりませ
ん。こういう時代には世界の授業、アメリカなどの授業をどんどん学んだ方がいいと
思います。バカにしてはいけないと思います。アメリカという国は生徒を受験で動機
付けすることはまったくできない国です。なぜかというと高校は全部義務制で高校入
試はありません。大学は受験勉強があるわけではありません。はいるのはかんたんで
す。受験があるから、という圧力は一切かけられません。それでなお子どもたちを勉
強につなぎ止めておかなければなりません。どうするかというと、本当に魅力的な授
業をするしかないのです。その考えのアイディアというのはものすごいものがありま
す。そのほとんどは我々はためしたものかもしれません。教師の学力水準というか、
教師の知的能力という点で日本の教師は高いと思っています。日本は教育というもの
に力をいれてきました。だからこれまでアメリカの教育とかヨーロッパの教育から学
ぶということはあまりしませんでした。そうではありません。試験だとか受験だとか
いうことが一切プレツシャーをかけられないで、なおおもしろく授業にとどめておか
なければならないのです。アメリカから研究者がきて、神戸の高校に一年間通って授
業をうけた人がいます。それでドクター論文を書いています。日本の高校で授業をう
けてみて最初に驚いたのは、授業が全然わかっていないのに、ずっとだまってきいて
いる生徒がいるということでした。アメリカでは一日で暴動がおこるといいます。わ
からない話をするな、と。でも日本の生徒はずっと黙ってきいているのです。まるで
自分が理解できないのが悪いかのようです。日本人が会社にはいって従順に働くのは
これが原因だろうというのです。アメリカではこういう授業はもたないのです。アメ
リカだけでなく、世界と交流するのはこれからすごく大事なことだと思います。
 
3.感情の教育

 日本の教育は学力・学力といいますが、子どもたち一人ひとりの感情を豊かに育て
ていくこと、感情を表現する力を豊かに育てていくことも大切です。自尊感というの
は自分の正直な感情を自分で肯定することから身に付くのです。人間の中には人にい
えない感情をいっぱいもっているのです。半分ぐらいは人にみられたくないのです。
嫉妬しているとかくやしいとかいろいろな感情をもっています。それを隠さなきゃい
けないとなった時に無理が生じるのです。しかしそれを露骨に出してしまうとおかし
くなってしまいます。そこに感情の教育のむずかしさがあります。授業を聞いている
時に先生の説明がわからなかった時に「わかんないよ。なんてへたな説明するんだ
よ」と思った時に「先生、わからないのでもう一度説明して」と言うと、その子はネ
ガティブな感情をだしてくれたのです。その時に「何がわかんないだ」とムカッとし
ないで、「そうかどれがわかんないのか。いい質問してくれた」とネガティブな感情
をだしてくれてありがたいと思うかです。感情の表現、感情の耕しをめざす授業はと
ても大事です。稚内北星学園という大学があります。コンピュター関係の公立大学で
す。入学してくる学生は著しく学力が低いのです。授業をやる時にコンピューターの
説明を「一」からやっていくとついてこないというのです。相談してこういうやり方
をやめました。「お前たち、コンピューターを使えるようになりたくて来たんだろ。
何がやりたいのか」「音楽やりたい」「美術やりたい」などといいます。「じゃあ、
こういうテーマで作品をつくってみろ。つくり方がわからなければ聞きに来い」とい
いました。とにかく表現をさせることに徹した授業にかえました。そして関連させな
がらどんどんやり方を教えていきました。最初は自信がもてないからいいものはつく
れなかったのですが、つくったものを「おまえ、おもしろいものをもっているなぁ」
とか「じっくりがんばってみろ」などとやっていると、みちがえるようにいいものを
つくるようになるのです。僕も行きました。学生とも話しました「この大学は自由に
させてくれるのでいい」というのです。これをきくと学力の基準というのはこちらが
教えたものをどう理解し、どれだけ到達しているというのではないことがわかりま
す。学力というのを感情・感覚をベースにして、それをどう表現していくかというこ
とをもうひとつの柱にしていかないと21世紀に広がる較差がうまらないと思いま
す。
 新しい学力観を考える時に、感情の教育というものにこだわってみてもらえないか
ということです。

4.親といっしょに

これからの学校で階層差をどう克服していくかという時に、親といっしょに学校を
育てていく、親といっしょに教育を考えていくということを考えていく必要があると
思います。学校にはいると親は本当にとまどうのです。幼稚園とか保育園ではそれな
りにワイワイと相談もできたし、親どおしのつながりもあるのですが、学校に行った
とたんにバーッとなくなってしまうのです。学校にあがったあとも身近に相談できる
人を親は切実に求めているのです。その時に今のスタッフの状態で親の相談所をつく
ることはなかなかできないのですが、ひとつのヒントとして「おとなってりっぱみた
い」という群馬の松本美津枝さんの実践があります。この本を時間があれば読んで皆
さんに考えていただこうと思ったのですが、かんたんに紹介します。小学校一年生の
社会科をやることになって、「今日は家族のことを勉強します」と今の生活科みたい
なものですが、「みんなの家は何人家族?」とききます。「一人家族の人手をあげ
て」と。子どもたちは「先生、一人は家族といわないんだよ」といいます。「そう
か、じゃあ二人家族の人?」というと何人も手をあげるのです。こういうところから
はじめます。ある子が「こないだまで5人いたんだけど、おばあちゃんが死んで4に
んになっちゃった」と泣き出したり、あるいは「お父さんがいなくなっちゃった」と
涙ながらに語り、しんみりとした授業になっていきます。家族が死ぬとすごく悲し
い、産まれるとすごくうれしいということがわかっていきます。そういうことを学習
テーマにしていきます。そのなかでよっちゃんという子がいました。よっちゃんとい
う子は離婚したばかりで、お母さんはどこかに行っちゃって、お父さんと二人でくら
しています。お父さんの仕事はガードマンです。夜中どこかのビルでずっと仕事をし
ています。よっちゃんは家に帰るとだれもいないのです。そのことをよっちゃんはだ
まっていたのですが、ある時、授業の中で「先生、よっちゃんの家に行ったらきたな
かった」という子がいました。先生は知っているのですが、カップラーメンなどを
買って食べていますが、それを洗わないから家中ごみだらけです。松本さんはそれを
知っていて、一週間に一度洗濯したり、そうじをしたりしていたのです。それをいい
ませんでした。友だちが家に行き、それを見つけてしまいます。それを「なぜそうな
のか」ということで少し勉強しようということになりました。「実はお父さんがガー
ドマンしていて」という話をするとしんみりしてしまいました。「ゆうべもこたつで
寝てしまい、気が付くと朝4時になっていて、テレビがシャーッとなっていた」など
ということをクラスだよりに載せていくと、お母さん方がそのことを知って「よっ
ちゃんのとこ大丈夫なのですか」と少しずつでてきます。朝ごはん食べてこないなど
ということはしょっちゅうです。どうしたらいいかと子どもたちに相談すると「よっ
ちゃんのために毎日おにぎりをもってくる」といいました。「それじゃあ先生があし
たからおにぎりを持ってくるね」と言うと「だめ、なんで先生が持ってくるの!」と
「みんなで順番に持ってくればいい」となり、そしてよっちゃんのために毎日おにぎ
りを持ってきます。そうしているうちに冬休みを迎えます。冬休みはガードマンの稼
ぎ時です。お正月もずっとビルの仕事です。お母さん方が「先生、これ」と“冬休み
によっちゃんの家に行く当番表”を持ってきました。いつの昼のごはんはだれが持っ
て行く、古いコートはだれが持っていく、などとみんなで支えたわけです。こうやっ
て冬休みはのりきっていきます。しかし、そのあとお母さん方は「これじゃあ困る」
ということで元のお母さんに電話をします。その後いろいろあって結局お母さんがひ
きとります。卒業式のちょっと前ですが、お母さんがきたのです。いよいよ今日でお
わかれだという時です。よっちゃんにお母さん方がよっちゃんに一人ひとり握手しま
す。その時になんと言っているかというと「よっちゃん、本当にありがとう」と言い
ました。助けてもらったのはよっちゃんです。だけど、涙をながら「ありがとう」と
言っているのはお母さん方です。「うちの子たちがどんなにはげまされたか、どれだ
けしっかりしてきたか。これからもがんばるのよ」って握手するのです。それを見て
いた子どもたちが、先生のうしろに来て、しーんとしながら言ったことばが「先生、
おとなってりっぱみたい」と。それが本の題です。
 松本さんの実践のだしかたというのはすごいなぁと思います。家族の問題を授業で
とりくむというのはたいへんむずかしいです。かくさないこと、クラスに困った子が
いたときに「なんとかしようよ」ピチェです。学習しながら、お互いがさまざまなも
のを発見して、はげましあっていく、エンパワーしあっていくこれが学ぶということ
だとつくづく感じます。家族の問題というのは、困難を抱えるお母さん方、お父さん
方を学校は支えていく、エンパワーしていかなければならないと思います。そういう
つながりの中で子どもたちの学力問題をしっかり考えていかなければなりません。こ
れからの学校、小学校は親のサポートをどうしていくかということで、いろいろな
NPOとつながりを持っている学校もでてきています。家族ということを学習テーマに
していくことが新しい学校づくりに必要だと思います。この本は涙なしには読めない
本です。7つ話がはいっています。それぞれが感動的な話です。
 そういう実践に学びながら、親といっしょに学校を作っていく、親といっしょに学
びあっていく、そういうこともぜひ目指していただきたいなと思います。
 私の言いたかったことは人間の全体性を視野におきながら、21世紀の日本の教育
がまちがいなくかかえていく困難を今から見据えてだいたんにきりこんでいこうとい
うことです。

 

 
     

第1分科会

「ひとつのテーマから広がる学び~小さな穴からいろいろなものがみえてくる!~」


 報告・渡辺克哉(渋谷区立臨川小)            

 子どもたちの瞳が輝き、一つのことから多くのことがらへと学びを広げ、深めて
いった障害児学級での実践報告であった。参加者(普通学級)からは、私たちのやっ
ていることよりすごい!・・・1時間1時間評価基準(規準)にふりまわされて・・
・」と簡単と現場教師の苦悩の声があがる。

1.いろいろな導入パターンから予想することの大切さ
2.何だろうという問いと関心を広げる。
3.矛盾にぶつかる(とんでもない事実を発見する)
4.みんなで話し合い、深める中で本質に向かわせる。
 実践報告は上記4つの視点を示した上ではじまった。

『この中に何がはいっているんだろう』とダンボール箱を持ち出す渡辺さん。
「カード!」「質問もしてもいい?」会場からも声があがる。教室でもきっとこんな
授業風景だったことが容易に推察される。
「重い?」「ふってみて!」「たくさんあるの?」『中のものは透明なのにみえるん
だよ・・』「・・・?」「・・・?」渡辺さんが箱からとりだしたのは一本のベット
ボトル。『一滴ずつあげる!』―――そこで、さほど日常的には気にもとめなかった
“水”がクローズアップされていく。
 これは、“水はどこから来るの?――蛇口のむこうは?”の導入。「地面の中に水
の道がある」「パイプ」「タンクにためる・・・」「ダム」などさまざまなに子ども
たちの発想。「湖に管があったよ!」の発言から「じゃあ湖の水を飲んでいるの?」
「ちがうよ」「きたないよ!」といった話し合いの広がりの中で“水の変身”が大き
な追求課題になっていく。
・画用紙に小さな穴をあけて、その向こうの写真を見る。穴を動かしてみる。
「あっ、ゴリラだ!」「ゴリラが死んでいる!」・・・そんなことから“日本全国ゴ
リラマップづくり”へと調査がはじまる。“ゴリラの絶滅を救うには?”どうしたら
いいという子どもたちの熱いまなざしは、日本全国へ、世界へと広がり、環境問題を
視野に入れていく。
 「子どもたちは、テーマについてどんどん深く、自分たちから学びを発展させてい
き・・私たちにとっても発見の毎日で、新鮮な気持ちで子どもたちと感動をふくらま
せていくことができます」と渡辺さんは結んだ。
 協議の中で、導入のノウハウが大切なのではなくて、どんな教材(テーマ)に子ど
もが眼を輝かせるのか、一つ一つ細切れの事柄に出会わす=教える(積み重ね・定着
さらる?)授業が求められているのではなく、子どもが関心や好奇心を向け、自分の
問題として捕らえることで、そのこと(テーマ)を知ろうという気持ちが強く働く。
その時こそ、子どもたちは学ぼうとしているんだということが深められたような気が
した。現場教師に元気を与える実践報告であった。
                                      (田所恭介・記)

 

 

第2分科会

「なりたい自分探しを支える力とは何か・・ひきこもる若者との対話を通して考えていること」         

報告・佐藤洋作(NPO文化学習共同ネットワーク)

 佐藤さんは、小学生から青年までを対象にしたフリースクールの主催者です。目の
前にいる子どもたちの「いま・ここ」ということを大事にして、屋久島に行ったり四
万十川に沿って歩いたり、米作りをしたり、仕事発見講座を開いたりして活動しなが
ら学んできたことをベースに「学び」とは何かについて整理し、発表してくださいました。

 全体講演で汐見さんが語られたことと重複する部分についてはレジュメにあっても
省略されましたが、『「なりたい自分」探しを支える力として』(A 次分を受け入れる力
(自己肯定力))(B 他者と交わる力(関係調整力))(C 「なりたい自分」が分かる力
(自己表現力))の3つを挙げておられます。

『「なりたい自分」探しを支える学びとは』ということで、(A「いま・ここ」を充実させる学び)
・(B 平和をつくり出す学び)(C 「なりたい自分」探しを支える学び)の3つに整理して
話されました。

 「レスポンス(応答する)」ということをとても大事にしているから、探求的に学
んでいくことができ、協同の学びがうまれる。そして他者(世界)にレスポンスする
身体が回復する。「学ぶ」には「応答する(レスポンス)力」が育つことが必要なの
だ、今の忙しさの中で多くの学校は十分なレスポンスどころか、普通のレスポンスも
できていないなぁと私は改めて思いながら、佐藤さんの話を聞いていました。


<参加者の声から>
・自分探しを今の子どもたちは皆していると思います。ですからそれを体現している
ような不登校・ひきこもりの子ども・青年も含めて支えていくような学力こそが、今
の時代の転機の中で求められていると思います。例えば、豊かな遊びを奪われている
子どもたちの生活のように私たちの今の社会は、喜びを持って人間らしく生きる基盤
が崩されています。そんな社会で悩んでいる子ども若者が求めている学びは何か、子
ども若者たちと一緒につくり挙げていきたい、そんな学校があったらいいと思いま
す。

・汐見先生のお話とつながりのある内容でしたので、よりわかりやすく、より深く、
お話を聞くことができてとても勉強になりました。又、現場の先生のお話や保護者の
方のお話も活発に出て、さまざまな立場からの思いや考えをお聞きすることができた
ので、とても有意義な時間を過ごすことができました。


(荻野佳津子・記)

 

 

第3分科会

「イラク戦争とメディア・リテラシー・・時事問題を教室へ」参加型授業の体験


報告・本山 明 (葛飾区立本田中)


 参加者は15、6人と少な目であったが、多様な参加【報道関係・出版関係・教員
・学生・研究者】となった。
 穂と山報告では、実際に分科会参加者といっしょになっての活動がおこなわれた。
イラクという区にを、自分たちの生活と結びつけてとらえる教材としては、おたふく
ソースの原料の一部が100%イラクからの輸入であることなどが、実物の原料をか
じりながら紹介された。また、国内の新聞9紙がイラク戦争をどのように報道したの
かが比較されたり、報道写真に対するキャンペーンづくりと実際の記事比較などが
あった。

 質疑の中では、以下のような意見がだされた。
・マスコミという限られた報道のなかで、生徒に賛成反対を判断させることの意味が
本当にあるのか。マスコミでは流されない情報にこそ真実があるのではないか。
・大学でイラク報道問題を扱う場合、マスコミ不信で終わってしまう形声がみられ
る。あるいは、右と左の情報を並べてその間をとるということら陥りかねない場合も
ある。
・社会科学的な認識力を身につけていくことと、日常の中で政治的判断をくだしてい
く実践との緊張関係を教育の現場でどう引き取っていくべきなのか、検討する必要が
あるのではないか、その意味で、保護者の反応はどうか。
・現場記者の情報、1次報道が、どれほど新聞に掲載されているのかどうかこそ、生
徒たちといっしょに調べることも大切である。
・リアルタイムで、現代起こっている社会的事件に対して、生徒に自分自身の感覚を
くぐらせる体験をもたせることに、この実際の重要な意味がある。

 今後も実践と研究の交流を続けていくことを確認して時間となった。

(荒井文昭・記)

 

 

第4分科会

「保健室で聞きとる子どもたちの声~子どもと学校の今を考える」

報告・佐々木弘子(豊島区立真和中)

○佐々木さんの報告から
 佐々木さんの話を是非聞きたいという要望がずっとあって、今回実現したことで、
記録者は勿論参加者の方々もとても喜んでいました。
 佐々木さんは「子どもが変わった」ことを○生活環境の変化、○からだの変化、○
心の変化、と3つの視点から報告しました。とりわけ体の変化については、生徒たち
に万歩計を使った歩数調べを実施したり、生活実態を具体的に調査するなどして、説
明しました。その中で、佐々木さんのお話の核心は「保健室に来る子たちを受け入れ
て形に残る仕事はしない」という佐々木さんの姿勢・取り組みにありました。「これ
をしないといけないと仕事に負われていると子どもがうるさくなる。だったらそんな
仕事はやめよう」というメッセージは、今「保健室の先生」のおかれている実情です
が、このことはすべての教員にもあてはまる思いがしました。意味のない報告書書
き、「研究集録づくり」・・・は勿論ですが、いつの間にか、子ども不在の教材研究
や子ども研究になっていないか???と私自身も思った次第です。佐々木さんはもっ
と子どもに向き合うことを大切にしよう」「保健室の先生ってヒマでいいね」って言
われれば本望・・・ということを強調していました。
 「あくまで身体にこだわって始めた生活点検」の取り組みは佐々木さんのすばらし
いとりくみでした。体育祭の一週間前から「健康作りカード」へ記入させ、全員にコ
メントさせることで、生徒が変わっていったことを紹介しました。ゲームにどっぷり
浸かっていた生徒が5時半に起きるようになった経緯など興味深いものでした。

○分科会の話し合いから
 佐藤博さんの軽妙な司会で多くの参加者から話が聞けました。中学2年を担任する
大谷さんからは「生徒たちの人間関係は薄氷を踏む思いになっているのでは」という
話がありました。授業中に、隣の席の女の子どおしがやりとりする「お手紙」では
「ディア○○、さっきのこと怒っている?」という類のたわいのない「会話」がさ
れ、携帯での会話なしで暮らせない生徒たち。
 不登校の子どもを持つお母さんからは「2年間受け持っていて、初めてお子様の笑
い顔をみました」と言われ、「先生は我が子をどれほど見ていてくれていたのか・・
・」という心配な話もありました。
 「からだとことばの会」の活動を続けてこられた方から、どの子どもたちもくらし
の中でリラックスしていないことが報告され、子どもたちに自然に向き合う、子ども
たち自信が自然体になる取り組みも話されました。
 世田谷の給田小の先生からは20年間身体ほぐし、心ほぐしが薄着・はだしでの学
校生活の中で、全校で取り組まれてきていることが報告されました。
 学生の参加者から「これから教育実習があるが、中学生の妹から聞く先生との悪い
関係ばかり知ると、実習に行くことが不安」ということがだされました。
 司会の佐藤さんから「今の中学生はそんなことばかりではなく、いい話もたくさん
ある」として「中学生の主張」の取り組みの話がありました。“なさけない男子”
“ふてぶてしい女子”の中学生だが、「主張」で最優秀に選ばれた生徒が自分に自信
を持ち始め、ピカピカ光っていく様子を熱く語りました。子どもをかわいがっている
見方こそ望まれる・・そんな先生たちからの報告も出ました。

○行田稔彦さんのまとめの話
 分科会の世話人、行田さん(和光小学校校長)から、子どもをどうとらえるかにつ
いては2つの視点が重要であることが指摘されました。1つは子どもは大人社会の反
映であること。2つ目は子どもの「問題」とみられることを子ども自身の発達の契機
ととらえること・・・です。
 行田さんの小学校でもこのところ思いもよらない“事件”“事故”が起きているそ
うです。掃除中ふざけていて永久歯を損傷したり、体育館で出会い頭ににぶつかり、
眼底に重大な損傷を受ける子どもがいたり・・・子どもの身体は確かに「大丈夫なの
だろうか?」という状態だそうです。また、子どもが発達する中で、生じてきている
ストレスにも触れました。入学して3日目から保健室登校する子が教室に行くように
なるのだが、運動会を過ぎても父親の付き添いなしでは教室にいられないという状態
だったそうです。
 親離れできない子どもたちは小学校2年生でも学校内にある公衆電話に休み時間は
長蛇の列(家のお母さんに電話している)。子離れできない親はパソコンや携帯を
使って我が子の「現在地」を確認している・・・。
 こうした事態は子どもの自立を著しく遅らせている。そうした中での保健室の役割
は子どもの内面に向かうお母さんたちの相談窓口であると行田さんは指摘します。
 また、総合学習では“子どもたちが生きていく上で避けて通れない課題を考えると
ても大切な学び”の機会と考えていると話されました。
 最後に和光小学校にアフガニスタンから教育刺殺があって、日本の“不登校問題を
詳しく知りたい”ということだったというエピソードを紹介しました。アフガニスタ
ンでは“学校に行きたくても行けない”「不登校」・・・義務教育費の負担は国か親
かをめぐって研究中とか・・・・。
 日本の子どもたちはどんな状況に置かれているのか考えてしまいます。(とは参加
者全員の気持ちでもあったでしょう)


(市川 良・記)