第25回集会


2017年1月28日、東京池袋・生活産業プラザで「学びをつくる会」第25回の集会が開かれました。100人近い参加者がありました。まず、午前は今問題になっているアクティブ・ラーニングについて愛知教育大学の子安潤さんの講演です。午後はふたつの分科会に

わかれ、「学習」と「子ども」をテーマに学習を深めました。

 午前のオープニングは会の世話人・霜村三二さんのパフォーマンスから始まりました。霜村さんは、子どもとの出会いに仕える「リズム感あふれる」詩の紹介で、参加者の心を温めました。スタートは最初のあいさつに佐藤隆さんがたち、会の初心にふれました。会の発足した2002年、子どもたちの学びからの逃走が問題になり、子どもが主体となり、学びを作り出すことをめざしました。また、学力低下が問題になって、中身を問わない学力向上運動がすすめられていたときでした。そのとき、当面3年間は活動する、と決めたのです。3年たったら、やめるということで始まった「学びをつくる会」でした。それが毎月の例会でも50人を超す参加者がでるほどになっています。若い人を不安にさせる学校状況もあります。今日一日の学びをふかめましょう。
 このあと、大東文化大学の中村さんが午前の講師の子安さんを紹介しました。

 

学びが力になる時       子安 潤
 いま、産業のグローバル化がすすんでいます。2000年に学力低下論がおき、100マス計算などが広がりました。しかし、ただ覚えるということではダメだということで、コンピテンシーなどと言われはじめました。
 これと相まって保守的・国家主義的な海底紀要行く基本法が施行されました。学校と教師の統制がすすみ、教育委員会の権限が小さくなりました。教育委員の任命の仕方も変わりました。スタンダード化もすすみ、教師の諸活動のやり方を各方面で徹底してきています。目的を決めて、やり方まで決めてしまう、ということです。新学習指導要領によって、アクティブ・ラーニング対応の指導、チーム学校としてま対応、資質・能力の一覧表の作成、などが求められています。
 これはどういうことかというと、コンピテンシーを「知識と技能のまとまり」ととらえ、まずできるためには知っていることが必要だと考えます。アクティブ・ラーニングを授業の型としています。内容としては小学校に英語をもちこみます。また、市民教育もいわれています。
 ここで、コンピテンシーについて。言葉の操作能力は今起こっていることについて自分の考えを表現することだと思います。メディアリテラシーとの違いをはっきりさせる必要があります。言葉は内容がともなわないといけません。説得的議論するには、主語・データ・論拠・妥当性などが考えられなければなりません。
 今いわれているアクティブ・ラーニングは教える中身と関係ない形式だけを問題にしています。学習指導要領に例示されているだけです。
文化性を考えます。一般化できることは室の問題です。重要なことは「面白い」ということです。遊びに知性を織り込むことができると良いです。
 文科省編著の副読本は、これ以外ダメ、というニュアンスが広がっています。領土問題でも竹島・北方領土を固有の領土としています。多忙か・スタンダード化で教師の批判的とりくみができにくくなっています。さらにデジタルコンテンツの拡がりがあります。デジタル教科書の販売もはじまりました。授業のやり方まで書いてあります。
 1960年代から研究成果を授業に、とされてきたと思います。現代的な意味を考えるということです。論争的なものは論争的に教えるということです。政府見解のみを正しいとするのではありません。子ども自身が決められるように。小学校3年の商店学習で、感謝するのが決まっているのはおかしいことです。子どもの内側の声をきくことです。
 いま、産業のグローバル化がすすんでいます。2000年に学力低下論がおき、100マス計算などが広がりました。しかし、ただ覚えるということではダメだということで、コンピテンシーなどと言われはじめました。
 これと相まって保守的・国家主義的な海底紀要行く基本法が施行されました。学校と教師の統制がすすみ、教育委員会の権限が小さくなりました。教育委員の任命の仕方も変わりました。スタンダード化もすすみ、教師の諸活動のやり方を各方面で徹底してきています。目的を決めて、やり方まで決めてしまう、ということです。新学習指導要領によって、アクティブ・ラーニング対応の指導、チーム学校としての対応、資質・能力の一覧表の作成、などが求められています。
 これはどういうことかというと、コンピテンシーを「知識と技能のまとまり」ととらえ、まずできるためには知っていることが必要だと考えます。アクティブ・ラーニングを授業の型としています。内容としては小学校に英語をもちこみます。また、市民教育もいわれています。
 ここで、コンピテンシーについて。言葉の操作能力は今起こっていることについて自分の考えを表現することだと思います。メディアリテラシーとの違いをはっきりさせる必要があります。言葉は内容がともなわないといけません。説得的議論するには、主語・データ・論拠・妥当性などが考えられなければなりません。
 今いわれているアクティブ・ラーニングは教える中身と関係ない形式だけを問題にしています。学習指導要領に例示されているだけです。
文化性を考えます。一般化できることは室の問題です。重要なことは「面白い」ということです。遊びに知性を織り込むことができると良いです。
 文科省編著の副読本は、これ以外ダメ、というニュアンスが広がっています。領土問題でも竹島・北方領土を固有の領土としています。多忙か・スタンダード化で教師の批判的とりくみができにくくなっています。さらにデジタルコンテンツの拡がりがあります。デジタル教科書の販売もはじまりました。授業のやり方まで書いてあります。
 1960年代から研究成果を授業に、とされてきたと思います。現代的な意味を考えるということです。論争的なものは論争的に教えるということです。政府見解のみを正しいとするのではありません。子ども自身が決められるように。小学校3年の商店学習で、感謝するのが決まっているのはおかしいことです。子どもの内側の声をきくことです。
 教科内容についてふれます。学び舎の教科書は現役教師がつくっています。教科書というのは、研究者が執筆することが通常でした。しかし、教師こそが創るべきです。資料から子どもが問いを見いだす。生成的な問いです。
 アクティブ・ラーニングは教える中身とつなげて考えましょう。楽しさに批判と共感を織り込むことです。子どもの生活にアプローチすることです。貧困の問題、性的マイノリティの問題などそれぞれにとっての意味を問うことです。

 

A分科会・授業づくり
 授業づくり分科会は、としま南池袋ミーティングルームで行いました。満席になるほどの人数が集まりました。参加者は、学生・現場の教師、退職教員等がいました。
 最初の報告は、宮崎で教員をしている高橋亮一さん。学びをつくる会の集会の時にはいつもはるばる宮崎から東京に来ています。テーマは、教師の「観」についての話である。
授業で大切にしているのは、授業を通した関係づくりを目指したり、子どもの「学びたい!」を目指したりしている。
「観」の根幹は、本から学んだこと。学びをつくる会の世話人の本をたくさん読んだそうだ。例えば岩辺先生の『チョークで書く希望』霜村先生の『らぶれたあ』等。そして、大学での学び、人との出会いが「観」の根幹になっている。そのような高橋さんだからこそ、学びをつくる会に参加してくれるのだろう。
「観」が揺れる時、それは自分を問い直す時でもあると感じているという。まずは、周りの目・声が気になる時。その時には、「学校で一番時間を長く過ごしているのは子ども」という思いで、「子どもと共に歩もう」と思うそうである。同僚もずっと一緒にいるわけではないので気にしないことにしようとしているそうである。でも、周りの目が気になる時もあるそうだ。
宮崎さんは、職場のスタンダードをつくっている。スタンダードは、画一化された授業が子どもをのばすと考えている。毎回・毎年同じだから、子どもにとってもよいはず。ただ、スタンダードを研究している中で「何のためのスタンダードになのか」という疑問に思っているそうだ。
自分がやっていることは、職場では少数派だという。「子どもにかけた言葉・接し方はよかったのか」「もっとよい指導はないのか」と問い直し、自分の「観」を磨いているのだという報告であった。
そして、小グループにわかれて交流をした。全体交流では、「学校スタンダードは、こうです」と言えば教師は楽になる。というような意見や「学んだことと、学校とのギャップ」の話をもっと話して欲しかった。という意見も出された。
片岡先生の話では、観を手がかりに自分を問い直している。観というのは、教育観のことである。しかし、学校で教育観がわからないことがストレスになっている。そして、自分が「いいクラス」と思っても他の職員からすると「そう思わない」となるのがストレスになる現実がある。
「教える」をぬきにして、“子どもを育てる”という視点をもつようにすると実践が変わってくるのではないかと言う話があった。
 遠く宮崎から参加してくれた宮崎さん。遠く離れていても教育に対する思いは同じである。これから、どんな問い直しをして教師として成長していくのか楽しみである。また、話を聞いてみたいと思う報告であった。
2つめの報告は、茨城で小学校教員をしている堀口正子さんの報告。題名は、「子どもたちと築いたいのちの授業『ご縁玉物語』2年間のキセキである。きっかけは、「いのちの授業をもう一度」の本である。大分県の中学校養護教諭山田泉(山ちゃん)の実践と出会ったことである。
そして、山田先生に手紙を書き、講演会で会いに行く。そして山田さんを描いた映画『ご縁玉』の上映を申し出る。そして、いのちの授業を教材化する。その事前学習として、考古学者やアスリート等を学校に呼んで話を聞く。話を聞くだけではなく事前・事後学習もしっかり学習している。そして、映画「ご縁玉」上映会につなげるのである。その上映には、学年だけではなく学校までも巻き込んでいく。最初の年は、6人ものゲストティーチャーを呼んで学習している。
次年度も学習は続いていく。ゲストティーチャーは、9人もの人数である。その中でもがんを患いながら新聞記者をしている上野創さんの話を聞いている。学びをつくる会の学習会の場でも話をしてくれた。まずは、堀口さんの学級では、上野さんが癌になった時のこと、癌についてのこと、生と死について考えたことを聴き取っている。そして、新聞記者の仕事についても聴き取っている。
最後にご縁玉に出てくる山田先生の話に戻る。山田先生は、癌を患っていてホスピスに住む話になる。最後の家族旅行として海外へ行く。そこで聞いたエリックマリアさんのチェロに引き込まれていく。そして、堀口先生もエリックマリアさんを学校に呼んで演奏を聞いたり話を聞いたりする実践にまで続けていく。
『ご縁玉』からたくさんの人と出会い、教材化し、実際に話を聞いたり学んだりしていく実践であった。
分科会では、たくさんの意見が出された。その中で、「学校で、同僚の理解を得るためにはどうしたらよいですか?」「管理職の理解はどのように得られたんですか?」という質問には「しっかりとした学習計画をつくっているのです。」と答えていた。
「素晴らしい実践ですが、他の先生は真似できることではないですよね。どう思いますか?」という質問には、「私しかできない実践である。でも、子どものためを考えるとその時にできることに全力をつくしたい。」という答えであった。
片岡先生からは、今回の集会のテーマになっているアクティブラーニング(AL)と言われているが、この実践こそアクティブラーニングである。この実践には、新たな人との出会いは質的な人間観につながるということである。いろいろ難しいこともあるが、小学生でもできないことではないということをこの実践が証明してくれたという話である。
授業づくり分科会では、若手教師とベテラン教師の報告であった。教師という仕事は、いつでも悩みがつきものである。悩んだ時に自分を見つめ、自分の「観」を問い直すことである。子どものためを考えると授業も考えるものになる。授業を子どもと共につくっていく視点があれば子どものためになると考える。
また、宮崎さん、堀口さんの実践を聞いてみたいと思わせる報告であった。
       (文責・島﨑悠一)

 

B分科会・子ども
1)「子どもたちの『ことば』がある場所を目指して」菅沼健太郎さん(小教員)のレポートは、菅沼さんの“私の思い”から始まった。「人はそれぞれ『物語』のなかで生きている」ということを中心に据えていると語る。菅沼さんは、子どもたち一人ひとりの学びを大切にするために、五つの流れを大切にしている。
  ①子どもたちひとり一人の『物語』を大 切にしたいということ
  ②どんなことであれ、子どもたちは自分 の『物語』から出来事を受け取るというこ と
  ③自分の『物語』を更新するために、あ るいはその『物語』のなかに多様な他者を 育むために、お互いの学びを交流していく こと
  ④子どもたちが(無意識で)表出するこ とを大切に受け取りあうこと
  ⑤子どもたちが(他者の存在を意識しな がら)表出することを大切に受け取りあう とこと
 それと同時に、班長会や「日記」「しごと」といった活動を通し、知らず間に「自分を語ってもいいんだ」という場をつくることを教室の中で生み出している。
 菅沼さんは、長く高学年を担任し、今年度は初めて中学年を担任しているという。自分が話そうとしても、聞いてくれない子どもたち。中学年の子どもたちは、そんなことばをもっていて、そのことばをつかって、どんな『物語』を創り出すのだろう…それを楽しみにして、過ごしてきたそうだ。菅沼さんの教室には、70冊もの詩の本があって、ことば遊びが十分にできる環境をつくっている。4月から続けてきて、二学期になって子どもたちの詩がより多様になってきたと語る。
 そして、その中でも複雑な環境におかれ、暴力的になっているリュウさんに注目してレポートがされた。『だんごダンス』の詩の授業では、リュウさんがいきなり床で踊り出す。『しっぽバイバイ』の詩の授業では、詩に出てくるおたまじゃくしの気もちを捉えることができた。そんなリュウさんについて、クラスのみんなからドッチボールの際の不満が出てきたとき、菅沼さんは「やっと不満が出てきた!」と感じたそうだ。道徳の時間や、家に帰ってしまったリュウさんと菅沼さんの会話や関係から、だんだんリュウさんもドッチボールにこだわらなくなってきたようだ。3学期に入り、リュウさんはお母さんへの思いをどうしたらいいか分からなくなっているようだ。そのことが、彼の書く詩にも表れていることを、菅沼さんは読み取っている。

2)「その時、その子らしさが感じられたら…やっていけるよ」泉宜宏さん(小教員)のレポートは、子どもを理解するということをさまざまな場面からしている写真たちから見られた。『理解しようと何かをすること、歩み続けること』を、まるで考古学者や探偵のようだと、語った。
  今年度は図工専科を担当している泉さんであるが、2年生を担任していた時には、生活科で描いた思い出の場所に実際に行ってみたり、1年生の生活科「お手伝い」の紹介では子どもたちの発見カードや日記を学年文集として綴っていた。泉さんは、自分を表現するのが難しい子どもとは、おしゃべりをするのを大切にしたいと語る。その子がポロッと出した『自分』に寄り添い、少しずつ一緒に話しながら出していきたいと私たちに教えてくれた。菅沼さんにも、泉さんにも共通して言えることは、子どもたちが詩や日記、図工の作品作りなど、自分でじっくり取り組む時間を作っているということだ。その時間を生きているその子らしさを大切に、そこから子どもを理解しようとしている。
 コメンテーターの久冨先生からは、そうやって、他者や対象と向き合えることが、学級文化を作っていることにつながっているという話があった。現在の縛られる時代に、そのように子どもたちを『ひとりの生活者』として大切にし、教育実践をつくっている二人の先生の話は、私たちにもとても響くものであった。
(文責・千葉春佳)