第11回集会



7月22日に「学びをつくる会」の第11回集会がおこなわれました。その報告です。
 今回の集会は、「子どもの現状と学びの土台」をテーマに講演と分科会をもちました。参加者が80名でさいきんとしては多くはありませんでしたが、真剣に考えました。今回も若手教師、学生など若い参加者が多かったことが特徴的なことだと思います。
 午前は全体講演です。開会あいさつは菊地良輔さんがたちました。
 「今の大状況はわれわれをホッとさせるものではありません。北朝鮮のミサイル発射問題で麻生外相は金正日に感謝する、と発言しました。これで日本の憲法9条「改正」論議が前にすすむ、ということです。武力行使を声高に叫んでも違和感がありません。教育基本法「改悪」は継続審議になりましたが、秋には本格審議になります。しかし、教育基本法をふみにじっている政策についての理解は深まってきたと思います。子どもの現状を深く語り合うことが大事です。学びをつくる会では学び観、学習観を考えています。フィンランドの教育も日本の教育基本法を参考にしてすすめられているともいわれています。今日的課題に答えられるものにしていきたいと思います。
 続いて大日方真史さんから講師の岩川直樹さんの紹介がありました。そして岩川直樹さんの講演にはいりました。

 

講演:「子どもの現状と学びの土台」
岩川直樹(埼玉大学教育学部)

 今朝のスポーツ新聞に日本サッカーの新監督オシム氏が激怒した、と伝えています。記者会見で記者から「日本のワールドカップでの失望をどう思うか」と問われて逆に記者にきりかえしたそうです「その楽観の根拠はどこにあったのか」と。「楽観的にとらえていなければ失望はしない」と言ったそうです。

 現状はまだら模様です。いろいろな局面があります。自分自身もそのまだらの一部になっています。 現状をつくっているのです。
自分の記憶の中で「ゆさぶられたこと」を思い出しています。私は静岡清水のつくり酒屋で小さい時をすごしました。私の父はそのつくり酒屋の社員であり、母はまかないをしていました。大きな家ですが、ある時友だちが遊びにきて、トイレにいきたいと言いました。その時いやな感じがしました。「この家のトイレはくさいネ」といわれるのがいやだったのです。しかし、ある友だちが「トイレはくさいのが当たり前だ」と言ったのです。みんなが思っていることと違うことを言う人がいて、状況をどうとらえるか、何が大切なことなのかをあらためて考えることになります。「ガバイばあちゃん」という映画があります。原作の島田洋吉は広島生まれで父が原爆で亡くなり、母と二人になり、生活苦のため、佐賀のおばあちゃんの家にあずけられます。そのばあちゃんは「明るい貧乏をめざす」というふうに言います。「お腹がすいた」と言うと「気のせいだ」ときりかえします。洋吉が通知票をもらってきて、1や2ばかりの通知票をうしろめたくさしだします。ばあちゃんは「たせば5になる。人生は総合力だ」というのです。これを読んだ後、笑って、泣きました。「お前はお前でいい」ということを伝えています。
 学力テストの成績の現実があります。権威を笑い飛ばす痛快さが必要だと思います。まだら模様にみえる現実があります。実践とはつねにそのまだら模様の現状をどうとらえるかというところから出発するのだと思います。
 学力低下は貧困とのつながりがある、ということを考えてきました。経済的なレベルばかりでなく、社会的なつながりとも関係があります。貧しさを問うことは豊かさを問うことにもなります。現状ってなんだということを「問題」と「希望」とがまだらに存在していると言ってもいいのです。

 かかわってきた学校の話を少ししたいと思います。初任の先生が教室に来たばかりの時、ウロウロしている子に厳しく注意しました。それから、その子はことあるごとに反発をしていきます。クラスもおちつかない状態で、目の前で起きていることは大変なことなのに、なかなかその先生は自分のコトとして考えられてはいませんでした。分厚いガラスのむこうに現実があるかのような目でみていました。最初に注意したT君が充分なケアをうけていないこともわかってきました。その学校の校長は太っ腹な校長で、荒れている現実を率直に親に話しました。決して教師がだめだということではなく、(多くの校長は教師の責任を追求してしまうのですが・・・)初任の先生の腕をまくって、傷だらけになっているのを見せて「こういうことは許してはいけません」と現実を話したのです。そうすると、保護者が手伝いにきてくれるようになりました。T君が反発して、先生に向かっていこうとした時、あるお母さんがT君をだきかかえてとめました。するとT君は目にいっぱい涙をためてもがいて、からだをガタガタふるわせて泣くのだすが、声が出ません。抱きしめて居るお母さんもおもわずいっしょに泣いてしまいます。そばにいた別のお母さんが「先生もああなれたらいいわね・・・」と言ったそうです。そして、もちあがりになったその先生は2年目になって、明るい表情で独自の教材で研究授業をやるようにたくましく成長していました。
子どもの現実をどうとらえるか、学力というのは現状をとらえるための小さなひとつにしかすぎません。実践者は何が大事なことなのか、どこが現状を突破できるかを真剣に考えていく必要があります。当たり前の思考が見失われているのではないでしょうか。

 数年前、有珠山の噴火で被災した町に小学校があり、そこを訪ねました。被災で地域がズタズタになってしまいました。小学校も埋まってしまったのです。五年間復興にとりくんできた地域です。被災というのは「急激な貧困」といえるでしょう。そんな中で洞爺湖温泉小学校の教師たちがとりくんだことです。
 教師は「待機しろ」といわれていました。しかし、教師たちは子どもたちがどうなっているか巡回をします。親たちとむきあっていきます。学校と地域の人たちが一体となっていろいろなことをつくりあげました。避難してバラバラになった子どもたちは「友だちと会いたい」といいます。みんなと会う場所は学校です。学校が再開されるとなると、前の晩から待っている子どもがいました。
 教師たちが一人ひとりの子どもについて語り合いました。被災してから、それまでみられなかった行動に出る子どもがいます。突然大声をだしたり、不安で夜尿の症状がでる子どもがいます。カウンセラーの人の一声でみんな納得します。「異常な状況で異常な行動は正常な反応」だというのです。教師一人がみるのではなく、同僚とともに子どもの状況をじっくりみて語り合います。児童理解のカンファレンスといいます。子どものどこが気になるのかを教師が気になるのかです。被災した家を観光客が戻ってきて、その家の前でピースをして写真を撮るのをみていて、むかつく、という子どもが「でも、がんばらなければ・・・」といいます。こんなところが気になると教師の指摘もありました。
教室の中の子どもの気になり方が違うのです。語り合うことでそれが広がります。現状は弱さと強さ、貧しさと豊かさ、などがまだら模様に存在しています。具体的で特定的な子どもの心と体の状況をみていく必要があります。
 教室に身はおいているけれど、「いない」という状況の子が東京や埼玉の学校には多いように思います。ケア不足の子が多いということです。ある小学校の研究会で不登校の子どもの存在とどうかかわってきたか、という話し合いがありました。その中で、歯科検診があると休んでしまう子がいました。「歯に自信がない」というのです。評価過敏になっている、という現状です。

 今日は学びの土台ということですが、人は生まれてから、母が対処するのを自分の中にとりいれながら学習していきます。他者が自分の中にはいってくることで、学んでいくのです。他者の言葉がはいっていかない現実があります。他者がはいっていかない子に他者がはいっていくのはだれでしょうか。ヘレンケラーとサリバンの話をします。ヘレンケラーは小さい時に熱病で目と耳の機能を失ってしまいます。視覚も聴覚もことばもありません。サリバンがやってきて、片手に冷たい水を流し、片手に指文字でウォーターと示します。冷たい水とウォーターという単語が結びついたのです。その瞬間、表情に光がみえたといいます。サリバンは、その日のできごとを「聞いてください。奇跡がおこりました」と書きます。しかし、これは二回目のことでした。ケラーはアメリカ南部の裕福な家でわがままにくらしていました。やってきたサリバンは「しつけをしなくちゃ」ではなく、「この子と向き合わなければ」と二人だけでくらすようにしました。ケンカもします。ヘレンはかしこく敏捷な子だとわかります。ヘレンの大きな一歩は「サリバンからのおやすみのキスをうけいれた」ことでした。知識は光・愛・喜びである、今までとは違ってみえるのです。学びの豊かさの軸となるものです。サリバンは「その日は眠れなかった」と書いています。「明日からはいろんなことを学んでいける」という実感が広がります。そして、ヘレンはおやすみのキスをおかえしします。自分の中に他者を入れたのです。

 江東区の課題が集中している学校の卒業式のことです。この六年生の六年間は八人の担任が変わったといいます。「荒れた」時期もありました。子どもたちは無関心で、気を使っているけれど「かかわらない」という状況でした。体育でのピラミッドはきらいです。上の子は下の子のヒザの傷みがわかりません。下の子は上の子の恐怖がわかりません。他者を受け入れないとできないのです。水泳記録会がありました。他校はそろって応援しているのに、ここの子どもたちはバラバラでした。しかし、それぞれの思いで、それぞれのタイミングで応援していました。卒業式の日、教師が一人ひとりの名前を呼んで、子どもたちが一人ひとり言葉を言うのです。「水永大会の応援」のことを言った子がいました。自分の言葉で語っています。語りの中身に他者がいます。式が終わって校長室に戻った来賓たちが「さいきんの子どもたちは夢を語らないネ」というのです。しかし、子どもたちの中にいっぱい他者がはいっています。だから「立てる」のです。自立と相互依存の関係です。

 長野県の中学校の公開研究会のことです。拍手のゲームで3回名前をよばれた子がいました。まわりの子が名前を読んだのです。ゆきなさんとします。ゆきなさんは道徳の授業で「最初はどうでもよかった」と言う子でした。まわりに開いていかなかったのです。チェレノブイリの子どものことをとりあげていました。チェルノブイリのスベトラーナと自分がだぶって見えたのです。音楽集会でゆきなさんが全校生徒の前でマイクをもって語りだします。少しずつ、彼女の中に他者がはいってくるのです。みんなの中に自分がいる、という思いで自分の中の広場を広げていきます。

 江東区の小学校で道徳教育の研究指定をうけた学校があります。「たてまえにおわらない道徳教育」をすすめようとしている学校です。この学校で研究者と教師の協議がありました。芥川龍之介の「くもの糸」が教材になっていました。この教材の徳目は「節制」です。「糸はどうして切れたか」を考え、「欲張らないようにしよう」というのがたてまえです。子どもたちが話しあいます。「糸はどうして切れたか」極楽と地獄の隔絶感があります。お釈迦様は極楽から糸をたらし、地獄にいるカンダタをひきあげようとします。カンダタは糸を登っていきますが下をみるとたくさんの亡者がついてきます。カンダタは叫びます。「ついてくるな」そこで糸はきれてしまいます。
 ふだんは授業に参加しない健太くんが発言します。「ただの重量オーバーだよ」というのです。この健太くんが授業に参加し、発言していることが重要です。この教室には場づくりの歴史があります。健太くんの居場所がありました。健太くんに乱暴をされて、先生に告げ口する子もいます。先生はこの健太くんとつきあい、背景もわかっています。いいところもある、とまわりの子に言い、健太くんのやったことをユーモアにしてしまっていました。この健太くんにちょっかいをだされていた浜中くんは「おしゃかさんは切れやすいの?。一回の暴言で見放してしまうのか」というのです。健太くんの重量オーバー発言には反論がでました。「この事件はあの世のことではないか。あの世には重量はないのではないか」というのです。これで健太くんは納得します。「カンダタは欲張りすぎた」というのは階層の高い子です。教育実践は奥が深いです。
現状はまだらです。別の状況にしようという時、たくさんの毛糸が編み合わさっていくことです。

 


分科会


第1分科会 授業 
~授業で開く子どもの世界~
 

1.障害児学級からの報告(神代先生)
 一学期は作文、読み聞かせ、言葉あつめを中心に国語学習をすすめた。 
 絵カードを使いながら言葉集めをやってみると、少しずつ言葉を言うようになった。ある6年生の子は言葉づくりをしようと呼びかけても<お><し
><ま><い>としか作らなかったが、ある日、先生の目をみて何かを言おうとし始めた。一生懸命答ようとしてくれたことがとてもうれしかった。
 あまり言葉を発することのない子どもたちだが、「ファミレスでデザートを食べよう」という学習の時には、デザートメニューを何度も見て、「Kちゃん、アイスクリーム食べたい」と自分で文章にしてお話することができた。
 本当に言いたいことは言う!言いたくないことは言わされない!正直でかわいい子どもたちの姿と、一人ひとりを丁寧に見て、大切にしている先生の姿が伝わってくるレポートだった。

2.山崎先生の報告
 大変な2年生。10年子どもを叱ったことのない山崎先生が「いい加減にしろ」と叱った。一分ともたない集中力。みんなで聴き合うことができない。クラスのみんなを大事にして子どもの心を回復する。人間的に子どもらしい子どもへ。愛すること、いとおしむこと、信頼することを大切にしていきたい。給食の時間にはアドリブの小さな創作お話をはじめた。うるさかった教室が、お話を聞きたいがために「シーン」となっていった。

 コメンテイターの片岡先生から。
 子ども時代を精一杯生ききれない子どものつらさを山崎先生は受け入れていこうとしている。子どもが言葉に表現しきれない苦しみを受け止める回路を豊かにつくりあげた結果ではないだろうか。山崎実践は子どもの奥に秘められた自分や友だちの見えにくいところを交流し、発見すめような授業づくりへとシフトしていっている。 (文責・坂井ゆりか)

 


第2分科会 教師 
~教師の挫折と再生~
 

 「教師の挫折と再生」をテーマにして4回目。今回は4分科会中、最多の参加があった。
 はじめに緒方先生から、学校の実態と分析、そして展望が報告された。恒常的なサービス残業、不合理な勤務時間の割り振り、面接で異動を強いる校長。他の新採と比べられることに悩む青年。異動してきて、いきなり生活指導主任になる主幹。長時間過密労働と、学校が“物言えぬタテ社会”になってきている実態が次々に明らかにされた。他にも、賃金差別、夏季休業の変質、「人事構想」という名の排除などが実例とともに語られ、A地区ではここ4年間で退職者が倍増しているいう数字も挙げられた。こうした現状打開への希望として、まず挙げられたのは組合の風である。緒方先生の組合支部では、都人事委員会への措置要求や裁判を目指して法律事務所との懇談・学習をしている。他にも、父母と語り合うこと、不合理にだまっていない職場づくり、主体的な学びへの授業改善など、タテ社会とは対照的な横へのつながりの必要性が語られた。参加者からは、組合からの運動提起を期待する意見が多くだされた。

 次は、青年教職員Bさんの報告である。大学や採用試験で仲間を募り、新採の4月にサークルを発足させたという。きっかけは、昨年のこの分科会。配慮の必要な児童を受け持った新採の青年教職員が職場で非難され、孤立し、ついには死を選んだと言う悲痛な報告を聞き、「学校って連帯を知らない人の集まりだ。それなら」と、自らサークルをつくったという。サークル参加者へのインタビューが興味深かった。そこにみえてくるのは、楽しく本質的な授業をしたい。子どもの声に耳を傾ける教師になりたい。しかし、学年主任との関係に悩み、いっそ辞めて海外に行こうかと考えたり、時には電車に飛び込みそうになったりする、真面目で一途な青年の姿である。彼らは忙しくとも「ここに来れば教育の真面目な話しができる」と足を運んでいる。「学校は、聞く耳の育っていない人が多いのではないか」という指摘には考えさせられた。
 教員以外の参加者からは「法が守られていない」「なぜルールがないのか」といった驚きの声があがった。

 最後にコメンテーターの大日方さんからは、「語ることの大切さ」を話された。仲間がつながるとは、語ること。言葉でつながる中で、一人ひとりが見えてくる。なかでも大事なことは、弱さ、もろさ、情けなさなどを語ること。弱さをさらけだすことはつらいけれど、「そんなつらいことを語ってくれたんだなぁ」と聞いた人が思えば、それが次につながっていく。さらけ出したことで、信頼関係がつながってゆく。「今日のレポーターは、語り合うことや言葉を取り戻すことの大切さを語ってくれた」としめくくられた。 (文責・桐生孝文)

 

 

第3分科会 社会と子ども 
~格差社会の下での学校・学び・社会~
 

足立の子どもと地域の現状から何を大事にとりくんできたのか、という報告を私がしました。大東学園の中本正夫さんからは困難な条件の高校生に数学の面白さを実感させていくすばらしい実践報告がありました。生活に結びつけた授業を考える貴重な実践でした。95%の確率をどう考えるか、という問題です。降水確率95%では皆傘を持っていきます。500基の原発が60年間に少なくとも一回の大事故をおこす確立は95%だという試算もあります。でも500基とも事故をおこさない確立は99.9%ともいわれます。生活と結びついて考えることが大切だという話になりました。
 世話人の本山さんからは、最近のマスコミの論調の中からの数字の資料提供がありました。ワーキングプア(働いても収入が少ない人たち)という言葉もだされました。

 討論では、各地の子どもの姿が語られ、どういうとりくみが必要か、という話にもなりました。

 コメンテイターの岩川さんからのお話でまとめます。
 マスメディアのいう貧しさと、現実にむきあっている人がいう貧しさのズレがあるような気がします。勝ち組・負け組どちらも貧しいのです。社会全体が貧しいのです。格差社会の中で選択肢がたくさんあるようにみえるけれど画一化されています。展望を語ることはとても難しいことです。「けっこう同じで苦労している人もいるんだよ」ということを伝えたいし、したたかに生きている人がいることを伝えたい。「なんとかなるよ人生は」ということでいきたい。「学力は金で買えるか」ということも問題になっています。たしかに金で買える学力はあります。しかし、金で買えない学力もあります。他者とのかかわりで他者が自分の中にはいってくる、たった一回のできごとかもしれないけれど、ひとつのエピソードがあって、そのことの意味を忘れてしまうようなものではいけないということです。
(文責・大谷猛夫)

 

 

第4分科会 子ども理解 
~子どものそばに立って~成長の芽を見つける~

 教職4年目の沼倉衣里さんからは、教育実習での楽しかった思い出から「あのような教師になりたい。あのような学級をつくりたい」という夢を描いていたけれども、教員になって2日目からは戦争のような毎日・・・書類の山、一部の保護者からの訴え、給食や掃除の指導の仕方もわからない、そして子どもたちのけんか、けんか、けんか・・・。何度も「やめたい」と思いながらも、同僚の先生や、保護者の暖かいサポートに支えられながら、日々起こる問題に自分なりの考えをもって立ち向かい乗り越えていく力強い実践報告をしていただきました。

 対照的に教職経験の長い中学校の宮下聡さんからは、「子どもの“問題行動”・・・きっとワケがあるんだよ」と題して報告がありました。声をかければ返ってくる「きえろ!」「しね」という彼らの言葉に「だれに口をきいているんだ!」とどなり、全面対決するのではなく、「きっとワケがあるんだよ」「問題が起きた時が対話のチャンス(またこれで話が聞けるぞ)」「とりかえしのつく失敗ならいいじゃない」と子どもの行為をゆったりと受け止めたり、時にはさらりとかわしたりするなど、目線を変えると懸命でけなげで愛おしい子どもたちの姿としてみえてくるのではないかという肩の力がぬけるような提案がありました。

 コメンテイターの児美川孝一郎先生(法政大学)からは「子どもをどう理解するかということは、自分をどう理解するかということ。子どもの中に自分自身をみる、だから子どもたちと対話していくことは自分が成長していくことなのではないか」「肩の力をぬいて楽にゆったりと子どもと向き合っていくためには、楽にしていてもいいんだ、大丈夫なんだという安心を周りの人にもつくっていくことが大切」「現代の子どもには人間的無感覚が宿っていて、傷ついてしまうから、無感覚の鎧をつけて武装してしまう。だから『しね』『うざい』などの言葉に反応しないようにしているし、自分も相手に言ってしまう。社会全体の問題でもある」「あらためて子ども同士のかかわりをどうつくっていけるかという根本的な小学校教育の土台について考える必要がある」などの論点をまとめていただきました。 (文責・渡辺克哉)

 

次回集会は07年1月27日(土)を予定しています。今から予定ください。
それ以前は毎月第4土曜(9/23、10/28、11/25、12/23)に学習会を企画しています。あわせてご参加ください。学習会はいずれも6時からで池袋の会場をとります。まだ会場は確定していませんので、事務局に問い合わせください。