第22回集会


2014年1月25日、東京・明治学院大学で「学びをつくる会」第22回の集会が開かれました。開会の10時前からたくさんの若い教師・学生が来場し、80名以上の参加で大きく成功しました。まず、午前は大東文化大学の佐久間さんの講演です。午後は東京町田のベテラン教師・宮下聡さんの講演でした。

 午前のオープニングは霜村三二さんのパフォーマンスです。みんなで声を出してリラックスして学習会にのぞみました。


授業という世界 ー日常のなかの小さな奇跡たち
佐久間亜紀さん(大東文化大学准教授)

 お招きどうもありがとうございます。こんなにたくさんの方のお集まりに頭が下がります。今日は皆さんにすぐにお役にたつお話しはたぶんできないと思います。私は教育方法学という学問を専攻していますが、「すぐに役にたつ話はすぐに役に立たなくなる」と言われてますので、今日は皆さんが教師として生きていくときに土台や軸になるようなものを何かつかんでいただければと思ってお話をします。そこで、私自身が大学時代からこれまで何をどのように学んできたのか、を中心にお話ししたいと思います。

 

椙田萬理子先生との出会い

 私は学生のとき、ある教師の授業を参観したことがあります。私はびっくりしてしまいました。たった45分の授業というものが人の人生を変えるほどの力を持つんだなあ、という驚きでした。私は授業というものに魅せられて、私自身の人生も変わってしまったというお話しをさせていただきます。

 私は学部時代に今で言う不登校、当時は「登校拒否」と呼ばれる子どもたちや、引きこもりの子どもたちとたくさん出会いました。その子たちが口々に言っていたのが、先生たちへのうらみつらみでした。「どうしてあんなやつが教員になれるのか」と言った子もいました。その子は給食を食べるのが遅くて、ある日、先生に「お前はどうしてそんなに食べるのが遅いんだ?これでも食べてろ」と言われてゴミ箱に入っていたカビの生えたパンを口に入れられたというのです。その子が私も教師をめざしていることを知って、「なんだ、お前もやっぱり敵だったのか」と言いました。私は、教師になるとはどういうことなのかを突きつけられた思いでした。当時の私はこうして「教師は生徒を虐げる悪者」というイメージが膨らんでいました。

 そんな私が大学院に入ったのですが、そこで出会った先輩に何もわからないまま奈良のうね」と先生が言うと、子どもたちはいきなり席を立って、ある子は机の上に乗り、ある子は机の脇にかがんで、思い思いに「ほっ、まぶしいな」「ほっ、うれしいな」とか詩の暗誦を始めました。私はとても驚きました。私の知っている詩の授業とは先生が音読をして、それを子どもたちがお行儀よく一斉に繰り返す、というものだったからです。私はできすぎたお芝居でも観ているかのようでした。しかし、声を聴けば教師に無理やり読まされているのではないことは明らかで、教室には自由とともに授業に向かう緊張感が満ちていました。教師の風情も凜として気品があり、とても滑舌のいい先生でした。私のイメージする小学校のやさしい先生とは違っていましたが、子どもたちに決して恐がれてはいませんでした。そこで「この学級には何かある」と思わざるを得なくて、「もう一度来させてください」とお願いをしました。そして春になって、今度は自分で、一人でこの学級を訪ねました。これが椙田萬理子という先生との出会いでした。それから私は4年間、この子どもたちが卒業するまで椙田学級に通い続けました。

 

どんな授業にも「いきさつ」がある

 その再訪の初日もまた、衝撃的でした。帰りの会のときに、今日の一日を振り返って、みたいな時間があるのですが、司会の子どもが「友だちに何か伝えたいことはあありますか」と聞くと、Aさんという女の子が立ち上がり、半泣きの振り絞るような声で「Bくんが、『恋愛ドラマが始まる』と言って、私の嫌なことを言うのでやめてください」と言って泣き崩れて座ったのです。何が起こるかと見守っていたら、Bくんという子はAさんのすぐ後ろの席で立ち、「ごめんなさ~い」と軽く言って座りました。先生はどうするのかなと思っていたら、とても怖かったのです。「ごめんなさいなら誰にだって言えます!」と前からつかつかとBくんに歩み寄り、「ちゃんと顔を見て謝りなさい」と迫りました。私の方が縮みあがるほどでした。Bくんはやっとの思いで謝り直し、許されていましたが、いい雰囲気では終わりませんでした。小学校でここまで子どもを追い詰めるものか、と私は疑問を抱きつつ、聞くこともできませんでしたが、先生の方から「さっきはびっくりしたでしょう」と声をかけてくださいました。先生は当時、二人の幼い子ども抱えてとても忙しい日々を過ごされていたようでしたが、自分が何を感じ、考えているかを一人語りのようにお話しくださいました。それは「実は私の祖父は」というところから始まりました。私は耳を疑いましたが、それは、どうして自分が教職をめざしたのか、ということにかかわっていたのです。それは、「弱い子どもの側に立ちたいんだ」という思いでした。「先生のたったひとつの言葉で自分は救われたことがある。だから、自分は子どもを救う教師になりたいと思って教職に就きました」と言うのです。どうしてそういう気持ちをもつようになったか、というお話がおじいさんの代に遡って語り始められたのです。

詳しい話は省きますが、四国で生まれた先生は複雑な家庭環境で育ち、お父さんは税務署の官吏だったそうですが貧しい方を助けようとしたことが罪に問われ、故郷を追われて福井県に引っ越したそうです。それまで裕福だった暮らしが一転して厳しいものに変わり、給食費を納めるお金もなくて、金額の違う集金袋を他の子にばかにされるのが嫌で本当に傷ついていたとき、担任の先生が友だちにわからないように取りはからってくれて、「後で手紙を渡したいのでいらっしゃい」とみんなの前で言って、別の場所でそっと集金袋を手渡してくれたそうです。その一言で心底ほっとしてどれだけ救われたのかという体験が先生を教職に向かわせたのでした。「だから私は弱い子の立場に立つ指導をしていきたい。もちろん厳しいだけじゃなく、救いの手を裏に携えながらね…。だけど、実は私もいまの指導のままでいいと思っているわけではないんです。他の先生からも、授業が堅すぎる、子どもを椅子に釘付けにしている、と言われています。私の課題です」とおっしゃいました。私はその最後の言葉に打ちのめされました。私は何も先生の苦労や今までの生き様をわかっていませんでした。

 

教室はミクロコスモス小宇宙

 先生は、若い頃からの教職に込めた思い、そして、それが実現できているかどうか定かでないという揺れる思いを最初の日に私に差し出されたのです。そして、その日、自分はなぜBくんに厳しく当たってしまったかというお話しもしてくれました。Aさんは学級のなかでも特別感受性の強い子どもで今までもたびたび不登校になりかけてご両親も大変心配されていること、Bくんの方は教育熱心なご両親の期待をプレッシャーに感じてその鬱憤を晴らすような言動がめだっていたこと、でも学校でもBくんを追い詰めると行き場がなくなってしまうので様子を見ていたが、今日はAさんがあれだけ勇気を持ってみんなの前で言えたということを応援したいと思ってあのような出方をしました、と語ってくれたのです。

 すると、私はただ泣いていた女の子の背後に広がる世界がそこで見えてきました。Bくんもまた、お家でどんな思いで塾に通っているのか、それぞれの親の期待や不安も考えさせられました。教室でのたったひとつの場面にも、1人ひとりの子どもの過去や思いがあり、未来と交差していること、先生の側にも長い長い人生があり、今日の悩みがあり、迷いながらの願いと判断があるのだと知らされました。「ああ、宇宙みたいだ」と思いました。教育学の教科書に書かれていた「授業は小宇宙(ミクロコスモス)」という言葉の意味を初めて実感したのです。もちろんこの日の椙田先生の指導が正しかったかどうかは今でもわかりません。違った指導もあり得たかもしれません。しかし、高いところから教師を断罪したり、表面だけで教師や子どもをあれこれ批判するのは間違いではないかと深く気がついたのです。この日から私は、子どものいきさつと、教師のいきさつに寄り添う人でありたい、内側からものごとを見る人でありたいと願うようになりました。それが私の教育を学ぶ出発点となったのです。

 

授業だからこそ味わえる世界がある

 その後、椙田学級とのさらなる出会いがありました。なけなしのお金をはたいて年に何回か奈良に通うようになった私は、子どもたちと文通もするようになり、関係を深めていきました。すると、どの子がどんな子かとか、学級の人間関係とか、少しずつわかるようになってきました。すると、授業も違って見えてくるようになりました。4年生の2学期というと国語のクライマックスは新美南吉の『ごんぎつね』です。椙田先生も大変力を入れて取り組んでいました。先生の授業は、教師が次々と当てるのではなく、発言を終えた子が次の発言者を指名するというルールになっていました。この日、子どもたちが何について次々と発言を続けていたかというと、ごんは栗や松茸を運んでいることを兵十に気がついてもらえなくて「おれは引き合わないなあ」と思っているのに、なぜ翌日も出かけたのか、という先生の問いをめぐってでした。そこでごんはいたずらをしに来たと勘違いされて兵十に撃たれて死んでしまうという悲劇の最終場面ですが、さまざまな意見が交わされていました。ある男の子が「引き合わないってどういうこと?」とつぶやくと、こどもたちは「嫌な感じってことじゃない」とか、「つまらなくなったという意味ではないですか」「悔しいってことだと思います」などいろいろな言葉でその「わからないな」と言った子どもに答えようとしていました。だいたい前の場面で先生は次の場面で話し合いたいことを、「一人学習」というノートに書いてありました。この学校は一人学習と共同学習を順番で行うという独特の授業方法を大正時代から続けている伝統校でした。前の日に一人で子どもたちは何を考えたかを切々とノートに書いてあり、そのノートを見ながら子どもたちは発言を続けているという状況でした。しかし、それとは別の、友だちのその場の疑問や意見にも一生懸命考えて答えようとしていました。それで「ひきあわない」という言葉を理解した女の子は「ごんは悔しいけど、うなぎを盗んで兵十のおっかあが死んでしまったと思っているので、がまんして明くる日も出かけたのではないですか?」という意味の発言をしました。

これをきっかけに「おっかあが死んでしまったことを思うと、やっぱり持っていこうという気持ちになったんだと思う」というふうに賛同の意見が続きました。要するにごんは「兵十に申し訳ないなあ」という罪悪感から栗を運び続けたんだという意見がたくさん出たのです。ところが、そのあと別の男の子が「ごんは、うなぎのせいで兵十のおっかあ死んだとは思っていない。だって63ページにおっかあがもともと床についていたのを、ごんは知っていたと書いてあるもん」とそれらの解釈に疑問を投げかけました。するとみんなはザザザと教科書をめくって、一転して静寂が訪れて、全員が教科書を読みふけるのです。そして、そこからまた意見が再び白熱してきました。ごんが栗や松茸を届けに通ったのは「兵十が生活に困っているから人助けのつもりだ」「いや、教科書にはごんがほかの村人を助けた場面は出てこないから、人助けじゃなくて恩返しじゃないか」「こういうときは恩返しとは言わないで償いって言うんだよ」「償いって何だ?」と意見は延々と続きました。それで45分の授業は終わっていきました。

 

授業で表現される子どもの成長

 この日、私がびっくりしたのは、「ああ、ほかの友だちの疑問に子どもが答えようとしている。それってすごいなあ」ということでした。「引き合わないってわかりません」とか「償いって何ですか?」とか、「わからない」ということを友だちの前で言えるっていうのがすごいな、と思いました。それは恥ずかしくないということであり、友だちにバカにされたりしないことをわかっているんだな、信頼があるんだな、と感じました。そして特別優秀ではない子の「63ページにこう書いてあるもん」という指摘をみんなが受けとめ、テキストの記述にもどって議論を立て直すというのも驚きでした。  それは、私がそれまで出会ってきた不登校の子どもたちの学びとは全然違っていました。つまり、「勉強なんか一人でもできるじゃないか。いじめにあったり不登校になってまで学校に行く必要ないよね」という考え方が新しく出ていた当時でしたので、私もそう思っていたのですが、「ああ、一人じゃ到達できない世界がここにあるんだ。自分では思ってもみない考え方に教室で触れて、なるほどそんな考え方もあるのか、と立ち止まり、批評という本質に至ることができるんだ」と、思いました。読むというのは、本と自分との対話です。しかし、書き手と読み手の間だけではその読みは深まらなくて、だから文学の世界には批評というものがあって、ほかの人がどう読んだのかということに触れて、また自分の読みを深める、そういう作業を文学の研究者たちは続けています。それを小学校4年生がしているって、すごいなあ、と私は考えていました。「教室というのは、ともに学ぶ世界なんだなあ」と初めてそこで学んだのです。

 

授業の変化と教師の変化

 しかし、その感動を椙田先生に伝えると、「今日の授業は失敗でした。期待していた答えがなかなか出ず、前時までの授業のどこがいけなかったのかを思いあぐねていました」と言うのです。先生は「ごんは兵十と仲良くなりたかった」という意見が出るのをずーっと待っていたと言うのです。でも、誰もそれを言わなかったので悔やまれていたのです。私の思いを伝えると、先生は「私は子どもの声を全然聞けていなかったのですね」とショックを受けておられました。昨年、椙田先生はご退職にあたって、この日の授業が転機になったと語られました。先生はここから苦闘を始められたのです。自分の解釈に子どもを引っ張りすぎたり、教師の意図通りに子どもを動かそうとする授業を脱却するにはどうしたらよいか、一から出直す決意をされたのです。そのために「みなさんが本当に言いたいことが言える授業にするには私のどこを変えればいいですか」と子どもたちの意見を聴き、試行錯誤を始められました。先生は自分に向けた「批判文」を子どもたちに書かせたのです。私はまずその勇気に驚きました。子どもたちは真剣に応えました。「みんなの考えにそって考えていても、先生がすぐに話題を変えてしまうので、自分の考えがずれてしまいます」「先生はつぎつぎに問いかけてきます。考え終わっていないのにつぎのことを言われるので、ついていけないなあと思います」「先生だけでなく、私も変わりたいです」。何という信頼関係でしょうか。それまでの授業でも、子どもたちは十分育っていたのです。しかし、椙田先生はそれをさらに超えようと努力していました。「教師にとって授業のスタイルを変えることは、生き方を変えることなんだな」と思いながら、私は先生の子どもへの構えを何より信頼して見守ることができました。教師は普通子どもを教え導くものだと思い込んでいますが、子どもに導かれてこそ開かれる世界があるのだと私はそこで学んだのです。

 

教育の語り方

 椙田先生の授業への批判はもちろんあります。批判される方の思いも理解できます。私も違和感を覚えることはありました。しかし、私が考えているのは、教育にはもっと違った次元で語りあえることがあるのではないかということです。

 教育の語り方には、規範論とか、当為論が盛んになっています。マスメディアや教育界でも、教育とはこうあるべきだ、こういう教育方法はいい方法か悪い方法か、学力向上にはこうしたらいいのではないか、これはいいこれは悪い、べきかべきでないか、とい議論があふれています。しかし、それはとても窮屈なことではないでしょうか。私が今日提案しているお話しは、べきかべきでないか、いいか悪いかをちょっと置いておいて、そこにどんな意味があるのか、そこにはどんな世界があるのか、それをどう味わえるか、そういう語り方をしてみたいな、という提案です。

 それには「私の味わい方」というものがあります。ですから、私はみなさんにもこれまでの自分の生き様と結びながら、「あなただったら、どんなかかわりが子どもとできますか、自分の子どもへのかかわりってどんなですか、先生ならではの味わいってどんなでしょう」と聞きたいし、自分にも問い続けてほしいと願っています。授業の魅力は特別の学校の、特別の先生によってだけ生み出されるものではありません。普通の先生の、普通の教室に、授業のもつすごい世界があります。ただそれを見ようとしているかいないか、の違いだと思います。そのことを私はその後の長い研究者生活のなかで実感してきました。

 

大学院のゼミで出会った先生の刺すようなまなざし

 私自身の体験をお話しします。私の最初の就職は都内のある大学でした。そこで、現職の先生方が派遣で来ている大学院のゼミを担当しました。私はまだ30歳くらいで、学生の方がみんな私より年上でした。最初に演習室に行くと、斜めに座って腕を組み、刺すような目で「小娘に何がわかる」と言っているような男性のまなざしに射抜かれてしまいました。その方は週を追うごとに表情が硬く暗くなっていきました。実はその先生はエリートの先生たちが行く研究所に派遣されることを望んでいたのに大学に来てしまった、大学の先生なんか現場を知らないじゃないか、という思いだったようです。後で知ったのですが、その先生は現場では幹部候補生で周囲からも尊敬され、副教材をたくさん作ったりとかそうそうたるキャリアをお持ちで、教育委員会からの期待を一身に受けて大学に派遣されていたのです。しかし、大学では自分の自負や土台を崩されるような講義ばかりだったと後で言っていました。その彼が1年間の研修を終えて現場に帰るというときに、私に、求めもしないのにとても分厚いレポートを出してくれたのです。びっくりしました。その表題には「誰にも報告できない報告書」と書いてありました。そこに何が書いてあったかというと、その先生の生い立ちでした。椙田先生のときと同じことを大学で再び体験したのです。

 

「振り返り」が教師を鍛え育てる

 なぜそのようなレポートを書きたくなったかというと、私のゼミで一人ずつ自分の授業経験を出し合って検討し合うという演習を行った時、彼は満を持して教育委員会からも高く評価された自分の研究授業のビデオを持ってきたのですが、その時の体験がどれだけ自分に影響を与えたかということを私に語りたくて、半生を綴ってくれたのです。その演習の後の飲み会の席だったか、私に「あの授業は先生の熱意に子どもが応えて発言しようとしているだけではないか」と言われたというのです。「この言葉を聞いた時、なぜかバレた、と思った。熱意という言葉に引っかかったのだと思う。その原因を探るには自分の生い立ちを振り返らなければならない」と書かれていたのです。たった45分の授業を検討されるだけで、半生を振り返らなければならないような危機に教員とは立つものなのか、というのが私の衝撃でした。この先生が追求してきた授業の価値観やスタイルは私とは違うものでしたが、それでも私はこの先生を尊敬できると思いました。みなさんも、もし教職を辞めたいと思ったり、いま教職に就くかどうか迷ってます、ということがあるなら、ぜひ一度自分と向きあっていただきたいと思います。

 この先生の生い立ちは私には衝撃でした。勉強がいかに苦手だったか、大学にも落ち続け、たまたま受かったのが小学校教員養成課程だったこと、「やっとつかんだ小さな花が教職だった」と彼は書いています。コンプレックスと遅れた分を取りかえすように仕事に熱中したと振り返っています。そうしたら、教育委員会や同僚からいろいろ評価してもらえた、「しかし自分の手のひらで子どもたちを操ることができるようになっていたなあと今は思う。どこかで、子どもではなく、自分の授業スタイルを見てくれ、という気持ちが自分の中にあったのではないか、ここまで走り続けてきてやっとつかんだ大きな花、子どもたちのためにがんばっていた自分がいつの間にか子どもたちを利用して自分の評価を待っていたように思う。それはいつからだったのだろうか」。このように書いて、この先生は現場に戻って行かれました。その後も、いろいろな悪戦苦闘を続けていらっしゃいます。先生はどういう教育技術がすばらしいかということをずっと追求してきたのに、この大学で、役に立つ技術よりも自分自身の子ども観や教育観にこそ向きあおうとしてくださったのです。技術は大切です。たくさん面白い詩を知っていたり、いろんなパフォーマンスを知っていたり、いろんな教育方法を知っていて、引き出しがたくさんある、それはとても大切でしょう。でもその引き出しを適切な時に、適切な場で、そして自分らしいスタイルで使うことができるかどうか、それは「私」にかかっているんだ、私がどうやって生きてきているのか、どういう教師になりたいのか、授業とはそういう自分の思想ともいえるものが試される場なんだ、ということが私がこの先生から学んだことでした。

 

「困った子」が抱える問題は先生自身が直面している問題とシンクロする   

 その後、多くの学生や先生とかかわりながら、私がしてきたことは、その先生ならではの思い、その先生ならではの教え方、それがその日のその子どもの状態と合っていたかどうか、ということを一緒に振り返る、そういう作業でした。

 そういうなかで印象に残る「振り返り」をしてくださっている若い先生のお話を次にしたいと思います。一人の先生はKという先生です。彼は私の勤めた最初の大学で自主ゼミに参加してくれた学生でした。彼はいまではすぐれた実践家に成長していますが、これまでには教職を辞めたいと思ったことがあるそうです。それは彼が教師になって2年目のことでした。彼はこのとき、その後も続いていた自主ゼミで1つの発表をしました。「転入してきたAくんという子どもと、Bくんがいがみあっている。どんなにがんばっても相性が合わないということがあることがわかった」というものでした。彼はこの日のことを日記に書いています。「それで満足していたが、佐久間先生に、Aくんとあなたは似てるんじゃないかなあ、と言われてはっとした。そこから私の私と向きあう作業が始まった」というのです。彼の学級はその時学級崩壊寸前で、発達障害気味の子が2人いて、クラスは常にかきまわされ、授業中でも突然叫んだり、マジックで落書きをしたりして、お互いにいがみあっていたそうです。そこで出した結論が「この2人は相性が悪い」だったのです。しかし、仲間にさまざまな指摘をされてショックを受け、夢の中までそうした批判に反論しつつ、変われない自分に悲観的になっていたと言います。それでも彼は自分の振り返りを続けました。AくんとBくんがお互いに顔を見るのも嫌、と感じていることに共通しているのは、そして自分もそう感じていたのは、どちらもその時の自分では解決できなかったという共通点があることに気づいたのです。ここがAくんと自分の似ているところかもしれない、解決するすべがわからないのでその場しのぎにしかならない方法をとるしかなかったんだ、子どもからすれば大人へのメッセージ「自分で何とかしたいけどそれができない、だから何とか手伝ってほしい」という思いが込められた行動をとっていたのだろう、 いや、子どもにしてみればではなく、大人であっても同様かもしれない、助けを求めているのかもしれない、それはまさしく自分の姿だ、と彼は振り返っています。そして彼はその後、気持ちの余裕をとりもどし、子どもの行動を丁寧に見られるように変わっていきます。

 

「振り返りの振り返り」が教師を変える

 発表してくれる先生に「あなたの姿はこの子の訴えと重なって見えます」と言うことは、実は私にはよくあることです。困った子が抱える問題が、先生自身が直面している問題とシンクロしている、響き合っている場合がとても多いというのが私の経験上学んできたことだからです。

自分が対応できる問題には、子どもが直面していても解決のアドバイスもできますし、自分の枠組みの中で対処できます。でも、「どうしていいかわからない子」というのは、その子の感じ方や発想が自分の中にないだけではなくて、自分の枠組みでは解決できなくて自分自身でも困っているから、その子どもの直面している問題が気になって気になって仕方がなくなるのだと思います。そうした子どもの言動が教師の傷をもえぐり出してしまうのです。

 Kさんがその後教職を辞めないで踏みとどまれたのは仲間がいたからだ、と本人が書いていますが、私はその仲間とのやりとりをさらに振り返って、葛藤を続けたKさんの努力の賜物だな、と思っています。ただ自分の授業を振り返るだけだったら、誰でもやっていると思うのですが、自分がどういうふうに授業を振り返ったかというのをさらに振り返るということが大事なのではないかと考えています。今日私がお話ししていることも、私の振り返りの振り返りなのです。

「振り返りが大事」とは、いまブームのように語られていますが、何をすることなのかが十分明らかにされていないと思います。官制研究会などでは「私のここがダメでした」というようなレポートがよく取り上げられていますが、その「振り返り方」そのものや「構え」を振り返ることが大切なのではないかと思うのです。そのことを私はKさんの歩みから学んだのです。

 

目を消された先生の似顔絵

 最後に、いま渦中で苦しんでいる先生のお話をします。今年度初任のBという先生です。

まだ20代前半ですが、この先生も一筋縄ではいかない人生を歩んできました。ただの初任ではありません。彼女は勤めた公立小学校で一度退職に追い込まれた経験があるのです。その後、長い苦闘を経て、決意を固めてもう一度受験をして、今また初任者として二度目の教壇に立っています。彼女は大学を出て、はじめはなかなか合格しなくて悩みながら勉強を続け、やっとの思いで採用された学校で、5月にはもう拒食症になり、1学期で通えなくなり、管理職から退職勧告を受けてしまいました。私が新潟の大学に勤めていた時、一度会いに来てくれました。ガリガリにに痩せていました。そして、自分を責め続けていました。「私に力がなかったから、まわりの先生にこんなに迷惑をかけてしまった」「私がダメだったんです」と。そのとき、仲間とみんなで妙高山に登り、彼女は頂上から「バカヤロー」と叫び、そこから彼女は回復のきっかけをつかんでいきました。紆余曲折はありましたが、その後、突然「教員採用試験に合格しました」と連絡がありました。それまで私たちはその話題には触れないできました。触れると彼女の目はたちまち涙であふれてしまったからです。私はとても驚くとともに、心配になりました。また同じことの繰り返しにならないか、彼女自身がそう怯えているのではないかと思ったのです。そこで、「最初の時の一学期に何があったのか、振り返ってみたらどうかな」とおずおずと提案をしてみました。すると彼女はこの提案をしただけで滂沱の涙でした。

無理かなと思ったのですが、次の自主ゼミで順番を変わってもらって発表をしてくれました。彼女が書いてきたレポートの題は「これが、いまのわたしです」でした。その内容は衝撃でした。彼女は自分の過去がまだ「かさぶた」にもなっていない、という傷に直面をします。それを支えたのはその後非常勤講師をやった経験で、「私はこれまでの自分とは違う」というかすかな自信でした。彼女が振り返り、書いてきたのは「ボタンの掛け違いは始業式から始まっていた」という出来事でした。「始業式は校庭で担任発表があり、そのままクラス全員で教室に入った。その後に控えている入学式のためにわずかの時間で配布物を渡し、一言だけ挨拶をしてあわただしく初日が終わった。初日は最後にクラス全員で円陣を組み、『笑顔いっぱいの楽しいクラスにしよう、オー』とみんなで大きな声でかけ声を出して期待をふくらまして終わろうと考えていた。また、黒板には子どもたちへのメッセージと私の似顔絵を書いておいた」。彼女らしいと思いました。彼女は絵も得意なのです。「今思えば」と彼女は続けています。「最後に円陣をする時が来た。教室の前方に学級の児童全員が集まり、ほとんどの子が肩を組んで楽しそうに円陣をしようと準備をしていた。みんな晴れ晴れとした素敵な笑顔に、私も嬉しくなり胸いっぱいになっていた。しかし、Aくんはこちらをチラチラと見ながらも円陣には入らずにそっぽを向き、僕は参加しないよ、とでも言わんばかりでみんなと私を見ていた。よく覚えていないがBくんとCくんも円陣に参加していなかったように思う」その後、3人の誰かだと思うが黒板の似顔絵の目の部分を黒板消しで消していたこともに彼女は気づかず、その後彼らがどうしていたかも覚えていないと言います。彼女は今なら彼らに気づかず、声かけもせず、翌日も何もしなかった自分の何重もの過ちがわかると言って泣きながら報告をしました。みんなも気を遣いながらあれこれと感想を言いあいました。

 

振り返る勇気、弱さを絆に

 私はそれでも、苦しいかもしれないけれども「目はなぜ消されていたと思うか検討してみよう」と提案しました。「なぜ円陣に参加しなかった子どもは似顔絵全部ではなく、目だけを消したのだろうか?そこには何かあるはずだ」と。それは、円陣に入らなかった自分を無視していたために「先生ちゃんとしっかり自分を見てよ。先生の目はどこにあるの?」という強いメッセージだったのではなかっただろうかとみんなは思い至りました。このとき、期待で胸いっぱいの初任の彼女に、そこまで読み取る力量を求める方が無理かもしれません。しかし、目を消した子どもの気持ちを思うと、胸がキュンと切なくなります。彼女に、この日の子どもの気持ちにもう一度向きあってもらう、そしてそれを自分の土台にして第2の教職人生を歩んでほしいと願います。彼女のレポートは最後に「この体験を笑顔で語れる強い自分になりたい」と書いてありましたが、仲間からは「強くならなくていいんじゃない」 「弱い自分を自分の中に住まわせようよ」という声がかけられていました。いい仲間だな、と思いました。自分と向きあうのは辛い作業です。まして自分がうまく対処できなかった子どもたちについて振り返るのはもっともっときつい作業です。でも、そこに向きあわなければならない、それが教職の厳しさだろうと思います。対人専門職とはそういうものではないかと思います。だから、皆さんにはその自分の弱さを共有できる仲間をもってほしいと願います。今日ここに来ている皆さんは、そういう仲間を間違いなく持っている皆さんですね。どうぞ大切になさってください。

 弱さをさらけ出せば、みんなが弱い存在だと気がつきます。弱さが絆になります。自分が強くなるのではなくて、弱さを差し出せる、それが強いということだと思います。

 

教室と授業の世界は教師にしか語りえない

 最後に現職の先生へのお願いです。今日お話ししてきたように、たった1つの授業、たった1つの教室、先生方が立っておられる場所は世界に2つとありません。その教室の中で何が起きているのかということは、その先生にしか語れないことなのです。先生が語らなければ誰にもわかりません。

いま現場の実情にそぐわない「改革」がたくさん進んでいます。政治家は世の中を知らない、政治家は教育を知らない、教育研究者は現場を知らない、たくさんの批判が聞かれます。でも、それは教師が語らなければ世の中の人にはわからないのです。ぜひ、先生方が教室から発信を続けてください。子どもの事実を発信してください。子どもの物語を語ってください。それは先生方にしかできない仕事です。物語を共有することは、仲間をふやすこと、弱さを絆にすることじゃないかなと思っています。いま、実践記録の文化がどんどんすたれていっています。私たちが大事にしなければいけないのは、どんなことで子どもたちや教師たちが喜んだり、悲しんだり、苦しんだりしながら、必死で生きているのかという事実を教室から世の中に発信すること、その物語をみんなに共有してもらうことが重要なのだと思います。ぜひ、先生方のお力を発揮していただきたいと思います。今日はありがとうございました。

                      (文責・佐藤 博)

佐久間講演の感想

・授業づくりや学級づくりの大変さをあらためてかんじました。でも、それを乗り越えれば、子どもたち同士や子どもと教師の素敵な関係性ができるのかなと思いました。

 人に自分の弱さを見せることはすごく勇気が必要なことだと思います。しかし、弱さを見せること、弱さを見せることができる仲間がいることが強さだという佐久間先生のお話を聞いて、ありのままの自分を出すことができるすごく大切なことだなと思いました。

・「意味論」というのが、今日の全てだなぁと思いました。授業をつくるということは、教師自身の心、教師自身の人生を写しているように思いました。その考え、行動にはどういう意味があるのか・・人の心と向き合えるようになりたいです。

・私の中で、最も印象に残っているのは「ふりかえりのふりかえり」をすることの大切さをお話しでした。自分の失敗や辛かった敬虔をふりかえることは簡単なことではないと思います。でもそれをふりかえり、見直すことができた時、その失敗は次の成長へのステップとなるのだと思いました。困難に直面した時、ほかの見方をすることは、一人の力で解決することって難しいと思います。そんな時だからこそ、自分の気持ちや自分のことを率直にはなせる仲間、そして話しを聞いてくれる仲間の存在はとても大きいと思いました。

・佐久間先生のお話を聞いて、全身に鳥肌が立った。4月から東京都の教員になるということもあり、今、期待と不安でいっぱいである。しかし、今日のお話しを聞いて、少し希望が見出せた。教師としてのふりかえりを大切にしながら、子どもの本当の気持ち、内側からものを見ていきたいと感じた。佐久間先生は多くの人と出会い、その出会った人たちとの人生の転機となる機会に出会ってきたということが本当にすごいと思った。私は今まで授業技術がなければいけない。授業力がすごくなければならないと不安でいっぱいだったが、自分らしい、自分のスタイルで進めていくことが大切だということに気づき、本当に心がホッとした。今日、たくさんのことを学んだ。

・佐久間先生のお話しから、教師の指導の仕方には、その人自身ノライフヒストリーが大きく関わっているということを知りました。教師になろうと思った理由や「こういう指導をしたい!」という思いは、その人自身の経験からできた「目指す教師像」につながっていると思いました。

 「たった45分の授業で人生が変わる」という言葉がありましたが、実習の時の私は計画通りに授業をすることで精一杯になってしまい、本来子どもたちのための授業であるはずが、教師のための授業になってしまっていたなぁと反省しました。実習生だったため、まだまだ未熟なところも多かったと思いますが、その日一日、一時間の授業や生活が子どもたちにとってかけがいのない二度とない時間だと改めて感じました。

・子どもたちに寄り添える先生になりたい。子どもを理解できる先生になりたい。このような学生が私の周りにも多くいる。今回のお話しを聞いて、大切なことに気づけたと思う。困っているのは子どもだけではない。一般的に良くないとされる教師にもそれぞれにバックグラウンドがあり、思いますがもっている。それ知らずに、表面だけで判断することに抵抗を感じるようになった。貴重なお話しをありがとうございました。

 

 

いじめと向き合う指導・子どもとともに学びをつくる

宇宙一幸せな中学教師!を実感させてもらった"できすぎ物語"総集編

 元中学校教師 宮下聡

 

 Ⅰ.いじめ解決体験を学びとする――解決の主体は子どもたち

中学校教師として10年ぶりに1年生担任という最高の贈り物として、ルンルン気分で迎えた入学式。

 

1.指導すればするほど悪くなる

 4つの小学校から入学してきた子どもたち。中には、いじめ・学級崩壊が常態化したクラスもあった。その後、厳しい指導で秩序を回復したクラスもあったが、その管理の厳しさが子どもたちの心にさまざまな"後遺症"を残していた。

 中学校生活が始まると、こうした子どもたちの行為が合流して、すぐに教室の雰囲気を支配した。…席に着かない、おしゃべりをやめない、友だちの発言の揚げ足をとって冷やかす。遊びの形をとって誰かをオモチャにする。

 いじめ・からかいの加害者が数人から周辺の子どもたちに広がり、その対象も次々と変わっていく。勇気を持って注意した生徒は、いじめ集団から連続的に集中口撃を受け、D(デブ)(ブス)など彼らだけに通じる"隠語"で笑いのネタにされてしまう。

 厳しく「今、何と言った…?」と迫っても、彼らとの関係は悪くなり、クラスは暗く、いじめは深化していく。

 

2.腰をすえた取り組みを準備

 小手先の対症療法的な対応だけでは、問題が深刻化し「悪魔のスパイラル」にはまっていく。学級の"荒れ""活力喪失"がいじめを醸成する環境になっていることが見えてくる中で、いじめの現象への"対処"でなく「学級づくり」の基本を押さえて取り組もうと方針を立てる。

①-いじめ(人権侵害)は許されない」という基本姿勢を強く打ち出す。

②-いじめの標的となっている子どもを精神的に支える支援者(サポーター)をつける。

③-あらゆる関係者の力を借りていじめる側の事情を解き明かす(長期戦覚悟で)

④-事実を可能な限りオープンにして、問題を陽の当たるところに出してみんなの課題にする。

⑤-担任は明るく振る舞い、クラスの雰囲気を前向きにする工夫をする。

⑥-出来ることで子ども参加を求め、クラスの動きをつくり活性化する。

⑦-誰もが持っている「いじめNO」「いいクラスを」の思いをカタチにしていけば必ず変わる。

 具体的には

①-いじめの標的になっている子どもにサポーターをつけ、精神的に孤立化させない。

②-サポーターの役割は、いじめの標的になっている子どもと日常的に言葉を交わし、その子の思いを理解してあげること(学校での最大のサポーターは担任であることを示す)

③-クラス全体には、"いじめをなくす"ことと”授業をしっかり行う"ことがこのクラスの課題であると示す。

 

3.子どもたちの声がクラスの雰囲気を変える

 加害の側の子どもたちの背景に迫りながら、小学校からの生いたちや置かれている家庭環境や地域のスポーツクラブなどでの人間関係が複雑に絡む中で、通りいっぺんの指導が通用しない事情が見えてくる。一方、いじめの広がるクラスで「やめろと注意できなくてもいい。同調しないことが大切だ。そして苦しんでいる人を精神的に支えて…」と呼びかけが被害者とサポーターをつないでいく。

 そして、多くの子どもたちが抱いている「いじめNO」の思いを、クラスで起きていることをどう感じているか、今後クラスがどうなっていくことを願っているか、自分自身はどうしようと思っているかを「みんなの意見集[38人の一歩](掲載する意見は匿名とし、書いた個人が特定されないよう内容も加工→安心して本音が言えるようにするための配慮)としてまとめ、みんなで読み合うことを始めた。

 この活動は、"傍観者""当事者"に変え、子どもたちの本音が被害者を励ますことになった。意見集を読み合うことで、互いの思いを共有し、子どもたち・保護者の思い以上にクラスが新たに動きだす土壌をつくり出していく。

 

4.「当事者」=主体者を育てる学級づくり

 「38人の一歩」(意見集)で互いに確かめられた思いは希望に溢れていた。この希望の芽を目に見える形の活動=クラス目標を教室の壁に飾る放課後の作業となっていく。4月当初に決められたクラス目標「みんな、やさしく、信頼しあえる、楽しいクラス」(頭文字をとると、み・や・し・た)が子どもたち有志の手でデコレーションとして教室の壁に輝いた。

こうして一学期末になって,クラスが少しずつ変わり始めていく。希望に向けて舵を切り始めた秋には合唱コンクールがあり、「優勝するぞ!」のかけ声のもと、クラスの雰囲気を大きく変える具体的挑戦課題となり(結果は準優勝)、クラスは明らかに方向転換して前に向かって進み始めた。

.いじめ解決を子どもたちの学びに

 いじめと向き合う教育実践は、起きたトラブル(マイナス)を元の状態(ゼロ)に戻す"守り"の指導ではない。マイナスをかけ算すれば大きなマイナスも大きなプラスに変えることができるように、いじめ解決の活動を子どもたちとともに進めることを通して、思いやりと活力のある学級をめざす"攻め"の教育実践となる。

 どんな子どもにも、認められたい、安心して学び生活したい、友だちといい関係でいたい、という根源的な要求がある。このことこそ、いじめを解決する原動力であり、未来へ向かう希望ではないだろうか。

 したがって、中学生の生き方(未来への準備)という点から考えれば、子ども時代にこうした理不尽や不条理を改善する力を身につけることは、子どもたちの学びの権利である。不正常なことに違和感を感じ、されて嫌なことはイヤと言う。見ていて不快なことがあれば、そのことを相手に伝える。そして不都合があれば当事者として、しっかりと意見表明し改善に向けてみんなと手をつないで行動を起こす…。いじめ解決の取り組みを、子どもに安心安全の場を大人が保障する活動にとどめず、子どもたちがこうした自治の力を身につけていく学びの機会として位置づけ、教育実践の課題とすることが、今、とても重要になっているのではないだろうか。

 

."必ず変わる"と確信できたワケ~"36年の教師人生"をふり返る

 自分史――早くから両親を失い、お姉さん夫婦の下で暮らした=親がいないから甘えられない、反面"分かってもらいたい"思いを封印してきた――青春時代の話から始まった。

 

1.”熱血教師”というあり方を問い直す

中学教師となった'77年は、非行の嵐(校内暴力、対教師暴力、校舎破壊…性非行、ツッパリ文化…)が吹き荒れる真っ只中。

 その頃は

①-教師集団の組織的対応の必要性(足並みを揃えて)

②-毅然とした指導…「力」による指導→権威を示す

③-非行の芽を早期に摘む(アリの一穴を見逃さない)

④-授業生活規律の確立…子どもを指示通りに動かす

⑤-入学時の指導・しつけ(集団訓練)が大切

 子どもに"暇な時間"を与えるとろくなことをしないと、部活、生徒会、行事…子どもとともに朝から夜遅くまで、休日もまでも…。子どもに怖がられ嫌がられるのは教師の勲章(最前線にいる証)、指示したことは断固やらせる(一度引いたら次の指導ができない)と子どもになめられたら終わりと鏡の前で"怖い顔"をつくる練習をしながら、生徒と対決する夢を夜中に目を覚ます…一部の傍若無人な行動や挑発的な態度を見過ごすことはできない、きちんと向き合う熱心さだけが取り柄の青年教師としてのスタートだった。

 しかし、熱血姿勢だけでは子どもは変わらなかった。一致した指導…何を一致させるのか、子どもの側の事情は? 教師の持ち味は?… そうした疑問(本音)が生まれる中で、8年目に"対教師暴力"を受けた。

 非行生徒に体をはって取り組んできたことが、「てめぇがやってきたことだろう!」と蹴られたりする中で、自分たちの教師の取り組みが子どもたちの心に届いていなかった…と実感する。

 生活指導の研修会で、先輩から「子どもに殴らせてしまった貴方が悪い…良かれと思って指導していたことが生徒を追いつめていたんだ…」と指摘されて、それまでの指導のあり方を問い直し始めた。

 

2.目線を変える”ということ

①親(保護者)・市民と教育懇談会で変わる目線…今、起こっていることをいっしょに考える場に

②もう1つの目線=子どもの権利条約との出会いと学び

・子どもはどんな時にやる気を出す(意欲を示す)か、どんな時に心を開くか?

・教師の"教えた"つもりではなく、子どもが"何を学んだか"が問われている。

③前例ない子どもたちとの出会いから学ぶ

・だめな自分に無自覚で、その場しのぎ…「いいじゃん、別に」甘え・甘やかす中での"自分で決めるチャンス"を!=自立のためのドアノブは子どもの側にしかついていない。

・子ども目線で捉えると、違った景色が見えてくる…あるべき姿を求めることからあるがままの姿を受け入れることから始める。

 

3.”確信”は、子どもとかかわる教師として成長する中で

①-自分自身が苦しかった時、救いになったこと

・納得できない指導に対して何もできない、納得いかないことをしなければならない自分…苦しい

・話を聞いて共感してくれる仲間(他者)の存在…救い

・前に進めないときは横に広がればいい、100できなくも1できればOK!という発想…楽しい

②-目線(立ち位置)を変えて物事を見る

 子ども(親・同僚)には、どんな景色が見えているか?…あるべき姿を叩き込むのでなく、子どもから見える世界を多面的に捉え、働きかけ方と実践の問い直しを=問題の起きない学級づくりでなく、問題解決体験をする学級づくりを。

③-大切なことは何?

・子どもたちをどういう対象として捉えるか?→"人格の完成"をめざす方向で見るのか、道具として=人材育成として見るか

前半では、子ども(中学生)とともに生きるとは? そのなかで教師の役割が語られた。後半は、宮下さんという一人の優れた中学校教師の人間的な生きざまを通してしなやかな子ども観を獲得していく道すじが語られた。そして、常に子ども達と次につながる学び(人生の土台・礎)を大切にしていこうとするスタンスがうかがえた。

 何よりも子どもの成長と自分の成長が結びつく=今を懸命に生きる子ども一人ひとりの人生ドラマの共演者となれる教師の仕事の楽しさ(魅力)が若い人たちの胸に届く講演だった。       

(文責)田所恭介

 

宮下講演の感想

・いじめのお話では、子どもが主体となっていじめを解決するという言葉が印象的でした。教師や周りの大人が助けてあげなければいけないとばかり思っていましたので、それも大切だけど、それだけじゃ本当解決にならないんだと知りました。共感することからはじめ、皆が自分の問題として考える。そうやって学級をつくっていくんだと学ぶことができました。そして、宮下先生の教師人生のお話はとても面白かったです。アトムと哲人28号のように‘自分で意志を持って生きているか、そうでないか’という2つの違いはとても大きいだろうと思いま下。子どもを指導対象としてだけではなく、人として向き合って、信頼していける教師になりたいと思いました。

・私自身が大きないじめ体験をしたことはありません。でも気が付いていないだけで、いじめていたのかもしれないと思うことはあります。いじめ問題は私の近くにあって遠くに感じていたものでした。教師になろうと思い始めた頃、5つ下の妹がいじめにあいました、私や家族は甘かったです。「そんなこと気にしなければいい」「大丈夫。時間が解決してくれるよ」あんたは今のままでいい」と支えているつもりでした。なくなるわけないですよね・・・(笑)。その当時のことを涙ながらに語ってくれたのは去年の秋です。あれから4年経っており、妹は高1になっています。小学校の時から不登校だった妹が、よし!がんばってみようと行き始めた時のことで、今思うと、本当にごめんねと思うばかりです。結局また行けなくなり、学校を変えましたがそこでも行けずにに今もまだ傷を抱えながら、必死で過ごしています。宮下先生の話を聞くことができ、やっぱり先生になろうと改めて思います。子どもたちが見ている世界はどんなものなのか、どう感じているのかに寄り添う先生になりたいです。

・「いいじゃん」病の話しがありましたが、まさに昔の自分であったと思う。どうせ誰かが与えてくれる、意見を言っても受け入れてくれない、そういう環境が僕の周りにあったように思う。しかし、今回とても考えることができた。考えることを忘れず、学び続けたいと思う。ありがとうございました。

・いじめという問題について、このように具体的な体験談や解決のために実施したことのお話をお聞きしたのは初めてで、今までは漠然としていたいじめの実態や教師に出来ることの具体的なイメージが出来、とても貴重な機会になりました。対策については、サポーターの存在や「38人の一歩」という文集がとても印象に残りました。「潮目」というのが、本当に重要であると感じました。

 また、病身は動いているのが見えるが、長針、ましてや短針は動いているのが感嘆には見えない。でも確実に動いている、という言葉は励みにもなり、今後、教師を目指して、子どもとの関わりが増える上で心に留めておきたいと思いました。

・いじめ問題は、今やどんながっっこうでも起こりうる問題なのかなと思います。教師が見て見ぬふりをして、大きな事件が起こってテレビやニュースで話題にならないと対応が始まらないことが最近では多いように感じていました。そうじゃなくて、常に子どもたちと向き合って、教師が子どもたちと一緒に問題を乗り越えようとする姿勢を示すことが大切だなと、今日のお話しを聞いて思いました。

・いくら表向きの顔を子どもに見せていても、それが本当の顔ではないことを子どもは知っているのだと思いました。今日の人間性を見ているのは、他ならぬ子どもであることを強く感じました。「宇宙一幸せな教師」という言葉が出てくる宮下先生は本当にすてきだと思い、そして子どもに向かうのがまた楽しみになりました。反省すべきところもたくさんあったので、そこを直しながら、また子どもの前に立ちたいです。

・中学校の先生の話をきくことができて、とても貴重な時間でした。実習先の小学校の5年生でもいまいじめがくすぶっています。ATとしての立場にいる私は気づいたことを担任に報告するぐらいのことしかできませんが、いじめて子もいじめられている子も話すと心の通える一人の子どもであると感じます。こういった気持ちを忘れないでいたいと思える時間でした。

・宮下さんのお話しを聞いて、いじめ解決の体験を子どもの学びにしていくこと、教師がそれに向き合うことの大切さを考えさせられました。宮下さんの若かった頃(熱血教師)のお話、校内暴力や対教師暴力が校内に広がっていた第三の非行のピークの頃は本当に大変だったのだなと思いました。時代は違うけれど、今の時代においてもいえることではないかと思います。宇宙一幸せな中学校教師と言える宮下さんの教育観というか、子どもたちとの関わりを大切にしながら、学級経営を行っていった最後の1年のお話し、聞くことができて本当によかったと思います。

・大学の方でも何度かいじめのお話しを聞かせていただきましたが、何度聞いても思うことがあるなと考えさせられました。「いじめ解決」というとどうしても方法ばかり求めてしまいそうになりがちですが、教師がどうするかではなく、子どもたちがどうするかを子どもたちと一緒に考え、自分たちで、答えを求めていかなければならないのだとわかりました。

・私が目指していた教師像はまさに宮下先生のお話しにあった「熱血教師」でした。子どもたちのためにガツガツと指導していくことがたいせだと思っていたし、それができる教師がカッコイイと思っていました。しかし、大学に入って、ゼミに入って学ぶうちに私が目指していた熱血教師がどういうことを意味するのかに気づきました。今日、宮下先生のお話しを聞いて改めてそれを振り返りました。そして、子どもたちが人材という名のモノ化されてくような現状の中で子どもたちが愛のある人間として育っていけるような、それを支えられる教師でありたいと思います。

・とても貴重なお話だったし、宮下先生の言葉が響いてくる。今までの自分の実践や生き方に・・・という感じでした。もしかたら、私も子どもの頃の「わかってもらいたい、わかってもらえない」という感覚があったのかも、そして、それは今現在もかかえている感じようであると気づきました。起用のお話しをきっかけに、私自身のこれまでの実践、生き方etc・・・・をふりかえりたくなりました。

・自分は小中学校の頃、ボーズ頭にしていて、顔の輪郭が細かったため「おにぎり」とずっと言われて、バカにされていました。その頃は周りのみんなが自分の敵のように思えていました。あの頃の自分のような子どものためにも教員になって、その場を変えていこうと思いました。


右から三人目が宮下聡さんです!(世話人と)